惡ガキノ蕾 二幕
        ~嫌なお客~
 カラ・コロ・カラン──
「お世話になります」
 午後6時40分。然《さ》して大きくもないボストンバッグ一つを持って入り口に現れた凜は、引き戸を開けたまま改まった口調でそう言うと、姿勢を正してペコリと頭を下げた。
「晩ご飯まだなんだろう?」予《あらかじ》め事情を話しておいたきむ爺が、視線を真魚板《まないた》の上に落としたまま訊ねる。
「きむ爺がご飯作ってくれてる間に、二階に荷物置いてきちゃえば」
 裏口から二階に上がれるのを教えると、「お願いします」と、もう一度頭を下げて凜が階段を上がって行く。
 髪に残る水気を見て、練習から帰った後、直ぐに支度をして店まで急いだ凜の様子を慮《おもんぱか》ったのだろう。手早く料理に取り掛かるきむ爺の背中。お客さんの注文を作る時より気が乗っているのがその後ろ姿に見て取れて、あたしの頬も弛《ゆる》む。
 戻って来た凜は、そんなきむ爺の気持ちを知ってか知らずか、二度のお代わりで答えた。気が付けば開店時刻をとっくに過ぎた7時40分。二階に上がって先に休んでればと言うあたしに、洗い物だけでも手伝うと譲らない凜。自分の家だと思って好きにしてと言ってある手前、無理矢理二階に追いやる訳にもいかず、きむ爺に目を合わせると、苦笑しながらも頷きを返してくれた。
 ──カラ・コロ・カラン
 意外。最初のお客様は出戻った双葉とみゆ。…あ、あとプラス優の三人だった。
「今晩は」
 丁寧な御辞儀で出迎えた凜を面白がって、優とみゆが並んで御辞儀を返す。場が和んで穏やかな空気の中、双葉を間に挟んで女三人の酒盛りが始まった。
 油を注してもゝ年中体を軋ませているオンボロ時計が、8時と9時の真ん中で鐘を一つ打つ頃。貸切状態のカウンタ―で自身作詞作曲の奇妙な歌を、鼻歌では済まされない音量で歌い出すみゆ。透かさず優がボイパで参加してセッション開始。その横で双葉が凜に向け、幾分声を張った。
「律っちゃん大丈夫なの?」
「はい。治る迄一週間位は掛かるみたいですけど、熱は下がったし、咳もそこまで酷くはないんで…」
「そう…」
 答えた後で、何事か考える素振りを双葉が見せる。少し長めの瞬きを一度して双葉が再び口を開いた。「大会は4日からだよね?それまで何か予定あるの?」
「いえ…これといって別に…。一応、前日は学校の道場も開いているんで、『自主トレは各自の判断で』って事になっているんですけど、まだどうするかは…」
「そうなんだ」
「双葉飲んでんの♪」何が楽しいのか、割って入ったニヤニヤと笑いっぱなしの優が絡み始める。「そうだよ~シリアスな顔しちゃって~」みゆも乗っかっての二人掛かりに双葉は苦笑い。そんな双葉をスマホで隠し撮りする凜。あんたって子は…。ブレが無さすぎて、最早、潔くて清々しいね。
 ──カラ・コロ・カラン
「ガガッガッガ」
 引き戸を充分に開かなかったのか、自分の躰の幅が掴めないのか、肩口を硝子戸に打ち付けながら、油染みの目立つ作業着姿の若者が入って来た。その胸に縫い付けられているのは、あたしも知ってる近くの工場の名前。
 その若者は…あ、若者と言っても、勿論あたしよりは年上。そうだな…、年の頃は二十五・六といったところでしょうか。他にこれと言った特徴も挙がらないその若者は、小動物を連想させるよな落ち着き無く動く視線の置場所を探して、少しの間引き戸の前に佇《たたず》んでいた。
「いらっしゃいませ」と言うあたしの声にも、足下に定めた視線の先を動かそうとしない。そんな下を向いたままの若者から、か細い声が洩れてくる。
「二人なんですけど…大丈っうぁっ!…」言い終わらない内にその体を押し退け入り込んで来る男がいた。背広姿のその男が、よろめく若者の頭をいきなり驚く程の強さで叩く。信楽焼《しがらきやき》の狸、あの置物のモデルみたいなそのオヤジは、口から唾を飛ばしながら更に若者をどやしつけた。「岩井!このバカやろ―!連休中なんだ、暇に決まってんだろ。黙って座りゃあいいんだよ!」叩かれた当の本人は痛みに顔をしかめながらも、「すいません、すいませんゝ」と憑かれたように繰り返す。
 仰《おっしゃ》る通り。完全無欠、暇中の暇。暇過ぎて座敷の明かりを落としていたのが痛恨のミスだった。「どうぞお座敷へ」の一言を口に出来ない。頭を叩かれた岩井と呼ばれるその青年は、愛想笑いを浮かべながら、まるでそうする事が公共の決まり事であるかのように寸分の気恥ずかしさも見せず、カウンタ―に居並ぶ面子に恭《うやうや》しく頭を下げた。三人の姉様達はさっき迄の楽しげな雰囲気をさっさと懐に仕舞い込んで、冷めた目でこのコンビの珍客を眺めている。
 何処に座ろうか考える素振り等《など》、これっぽっちも見せない背広姿のぽんぽこ狸。幾つか空いている席の中から、唯一、ここだけは座ってくれるなオ―ラを全力で放つ優の隣に躊躇なく座った。コンマ一秒の逡巡《しゅんじゅん》さえ無い、ノ―タイムでの即決。これも又、違った清々しさを感じるから不思議だ。優が全力で放った渾身の溜め息も、一度腰を落ち着けた狸オヤジの体をその椅子から離す事は出来なかった。
 少しも楽しく無い正統な愛想笑いの状態に顔面を固定した岩井君が、後に続いて狸オヤジの隣に席を取る。座った途端、間髪入れず、「遅えんだよ!」と、又もや明らかに力加減を間違えた一撃で、岩井君の後頭部に平手打ちを浴びせる狸オヤジ。そして又繰り返される「すいません、すいませんゝ」
 …な、なんなんだこの二人!?売れて無い漫才コンビか!?そう考えれば登場からの度重なる岩井君への容赦無い一撃も、強目のツッコミに見えなくも無いけど…。
 いや、だも、じゃなくて…でも。だとしても、面白くないし笑えない。て言うか、今の処《ところ》、周りを不快にしかしていない。それが証拠に、少し前まであんなに楽しげだった店内の空気は、ものの数分で最悪と呼ばれるとこまであと少し。もう一・二歩進めばお通夜の酒席とそう変わらないム―ドが味わえそうな勢い。
 まあ、でも其処《そこ》は其れ。
「何か飲みますか?」暖簾を出してるからには、言わなきゃならないこの文句。
「ビ―ル。二・三本一緒に出していいから、急いでな」
 これ以上は無い高飛車な物言いで返す狸オヤジ。…何だろう?耳に入って来る一言一句が洩《も》れ無くムカつくのは。あたしの精神状態がよろしく無いんだろうか?それともポンポコが持つ特殊能力の所為《せい》なのか?狸オヤジの横では、女三人が急速に不味くなった酒の味を持て余して、まるでダンスの振り付けみたいに揃った仕草で燐寸《マッチ》を擦った。
 ビ―ル二本とコップを二つ、急いでって事なのでお絞りもいっしょくたに二人の前に置く。狸オヤジはこれも又迷いの無い動きでコップを掴むと、岩井君の眼前に突き付けた。これに応じて此方《こちら》も寸分の躊躇も無く、恐縮した様子でビ―ル壜を傾ける岩井君。それが口癖なのか、注ぎながらも又、「すいません、すいませんゝ」と呟いている。
 …分かった。最初の勢いと見た目で勘違いしてたけど、あたしが苛ついてんのは狸オヤジに対してと言うより、寧ろ岩井君に対してだ。この人…、何でここまで全ての言動が卑屈なんだろう。前世で狸オヤジの先祖に借金でもしていて、その記憶が消えずに今も残っているんだろうか。若しくは現在進行形で借金をしていて、これから踏み倒そうとでもしているのだろうか。将又《はたまた》、この場で常軌を逸した額の借金でも申し出る心算《つもり》なのか…。
 何《いず》れにしても、男らしさを毛ほども感じさせない岩井君のいじけた態度に、あたしの心身は拒否反応を示していたみたいだった。狸オヤジが差し出したコップにビ―ルを満たすと、もう一つのコップにも自分でお酌する岩井君。すると、一息で自分のコップを空けた狸オヤジが、岩井君のコップに手を伸ばすとその中身も一息で空けてしまう。突き出しを用意する手を止め、その一部始終に見入ってしまうあたし…と、その他全員。皆の注目が岩井君に集まる。皆、思う処は一つ。"さあ、どうする岩井君?"
「…っははは」
 …???、笑った。何処だ?今までの流れの何処に面白い処が有った?やっばっ岩井君。この人の行動、読めないわ。
「何笑ってんだよ!」
 正《まさ》に店内に居る全員の胸の内を言い当てて見せたのは、ぽんぽこ狸その人であった。
「岩井!お前はコップなんて使わなくていいから壜ごと飲め!」
「はは…」
 岩井君の笑顔の仮面。その目に、ほんの一瞬だけ血の通う人間染みた色が差すのを見る。その顔を見てやっと回線が繋がったあたしは、小鉢に牛肉の佃煮を盛る手前でフリ―ズしていた右手と左手を、もう一度動かし始めた。
 静かな店内に流れるのは、あたしが遣う箸と陶器が奏でる音色だけ。…十秒。…二十秒。
時の経過と共に岩井君の顔を覆う笑顔の仮面は罅《ひび》割れ、剥がれ落ち、次第に追い詰められた素顔が顕《あらわ》になっていく。青褪めた顔でビ―ル壜に手を伸ばす岩井君。
「どうぞ」
 あたしが突き出しを並べる小鉢を置く音に、壜に触れかけた手が一度引っ込む。
 その指先は微かに震えていた。「一気だぞ」追い討ちを掛けるぽんぽこ狸の言葉が、岩井君の緩慢な動きを益々ぎこちない物にする。
 …なかゝ言うことを聞かなかった岩井君の手が、遂にビ―ル壜を握った。照明の光をキラリと跳ね返して、ビ―ル壜が百八十度回転して逆さまになる。
 ──「グァフォッゴホッゴホッ…」
 案の定というか、ほぼゝ必然の結果ながら、壜の中身半分をその体に収める前に噎せて咳き込んだ岩井君。涙と鼻水、口から吹き出したビ―ル、詰まりは全て自分の体から出した液体でテ―ブルの上を甚《はなは》だしく汚して見せたのだった。
「汚ねえっ!ふざけんなよお前…拭け!今すぐ拭け!この馬鹿野郎!」
 確かに汚い。只、汚いと言えば、岩井君を罵るぽんぽこ狸の口から飛び散る佃煮の滓《かす》、此方も負けずに汚い。
「…すいません、専務。勘弁して下さい…」
 えっ!?なんて?専務?このぽんぽこが…。よく知らないけど専務って会社の中でも相当お偉いさんなんじゃないの?立場と容姿が釣り合わないと感じるのはあたしの個人的な感想だとしても、それなりに品格があっても良さそうなもんだけど…。
「一気出来なかったんだから、ここはお前が払えよ。おう、ねえちゃん。焼酎ボトル一本。それと烏龍茶、急いでな!」
 はいはい。もう真面《まとも》に聞いてたら苛々する気持ちに拍車が掛かる一方なので、耳に入れたら透かさず反対の耳から流す努力を全力で行う事にする。あたしがそう決心するよりかなり早い段階で"完全にシカトする"と腹を決めた御姉様方は、疾《とっ》くに自分達だけの世界に閉じ籠り、内側から鍵を掛けた上、寸分の隙間も無く心のカ-テンを閉め切っていた。
 K・Y…。K=空気を、Y=読めない。いや、そもゝ初めから空気を読もうとすらしない、空気を"読まない"タイプのK・Yな奴。明らかに其方《そちら》側のぽんぽこ専務がお構い無しに言葉を投げ散らかす。
「お姉ちゃん達可愛いね。幾つなんだ?」
 優、双葉、みゆ。瞬き一つせず、一ミリの反応も見せない三体の臘人形《ろうにんぎょう》。「可愛いね」の部分にあたしも入っていれば替わりに答えてやる処だけど、"今回に限って"言えばその必要も無さそうだったので、ここは焼酎とボトルセットを並べて傍観者の立ち位置を取る。
 完璧な拒絶反応を示す三人に全く違和感を抱かないぽんぽこ専務。カ―テンの閉まっている窓を外から叩く非常識さを惜しみ無く発揮して、隣に座る優に更に不躾《ぶしつけ》な質問を続けざまに浴びせる。
「大学生?社会人?この店はよく来んのか?」
 何かの間違いで答えが返る筈も無く、宙に浮いた専務の言葉は、優達の吐く煙草の煙に運ばれて天井にぶつかり掻き消された。既に聴覚の機能を停止してしまった優達に相手にされない事が気に喰わないのか、「ケッ」と吐き棄てると、今度はビ―ル一気から回復してきた岩井君に矛先を向けるぽんぽこ専務。
「岩井!次は焼酎一気だ!全部飲めたら時給上げてやるから気合い入れろよ!」
 ビ―ル大壜一気を命ぜられた時と同様か、それ以上に震えている…ように見える手が、それでも、そろゝとテ―ブルの上を這いずって、焼酎のボトルに手を掛ける。
「何とろとろしてやがんだ!嫌なら止めてもいいんだぞ!その代わり明日もお前のタイムカ―ドが在るかどうかは保証できね―けどな。ゲハハハハッ!」
 その言葉が引き金となって、岩井君はこのレ―スを走る覚悟を決めたみたいだった。壜を咥え込む様にして、逆さまにボトルを翳《かざ》す。ウォフッ。記録的な勢いで中身がぐんゝと減って、減って…は行かない。行く訳が無い。二度《ふたたび》、大方の予想をこれっぽっちも裏切らず、三センチとボトルの中身を減らさずにデジャブか?と疑う程の同じ動作で、噎せてそして咳き込んだ。自分で拭いたテ―ブルを、もう一度派手に汚して見せる岩井君。今度はテ―ブルもそのままに、一目散にトイレへと駆け込んで行く。
「ギャハハハハ!何回もゝ汚ねえ野郎だ」
 初めて店を手伝ったその日に、いきなり理解不能な光景を見せつけられ表情を曇らせっぱなしの凜を、みゆが目配せして自分の隣に座らせる。この喜劇だか悲劇だかも判別の付かない一幕。凜の目に触れさせる必要をあたしも見付けられずにいた処、目の届かない死角に座らせる憎い心配りだった。
「おう、親父。刺身は何が出来んだ?」
 出し抜けに放った専務の一言は、きむ爺の耳を素通りして壁にぶつかると、勢いを無くして屑籠《くずかご》に落ちた。言わずもがな、拾う素振り等《など》これっぽっちも見せずに丸椅子に腰掛けると、煙管《キセル》を取り出して煙草の支度に掛かるきむ爺。
「おい!聞こえねえのか!?刺身だよ、刺身!」
 ぷかりと宙を漂う煙できむ爺の表情を窺う事は出来ない。聞こえていない訳は無いので、鹿十《しかと》しているのか馬鹿にしているのか、多分その両方なんだろうけど、何方《どちら》にしろこのお客に庖丁を遣う気は毛の先程も無さそうだった。
「おい!!」
 声の届く範囲に居る者を洩れなく不快にさせる、苛立ちに汚れた専務の怒鳴り声。
「無えよ」と煙の奥から洩れたきむ爺の呟き。
「…ああ?」
「あんたに出す肴《さかな》は、うちの店に無えよ」
 今度ははっきりと聞こえた。間違い無く専務にも。
「な…なん、…てめえっ!このっ…客に向かっ…」
「ったく、分からねえ野郎だな。若い衆呑吐《どんと》させて喜んでるよな奴ぁ、うちの客になんかしねえって言ってんだ。金は要らねえから、ちゃっちゃっと帰《けえ》んな」
「な…何だと…じじい…」
 狸面を真っ赤に変色させた専務。きっと頭の中では自分を納得させ、その上できむ爺に打ちつける効果的な罵詈雑言を必死に探しているのだろう。
 1、2、3……7秒経過。
「ふざけやがって!こんな店二度と来ねえからな!」
「来たって入れねえよ」
 最後の台詞もバッサリと斬って落とされ、精一杯の厭がらせか、入り口の戸を開けっ放しにした専務様が目一杯肩を怒らせて帰っていく。時を掛けず戸口から覗いていた宵闇が、その後ろ姿を一息に飲み込んだ。
 ──「あれっ?」
 トイレから戻った岩井君が、リセットされたにやけ顔と共にまずは状況の理解に務める。1、2、3…「あのぅ…」早っ。呆れる位にすっぱりと自分で考えるのを諦めて、周りの人間に答えを求める岩井君。その視線の向かう先には…「!」選ばれたのはどうやらあたし。…ま、そりゃそうよね。
「先にお帰りになりましたよ」と、事の顛末では無く、極めて客観的に見た事実だけを告げる。
「はあ…。そうっすか…」
 てっきり、「じゃあ、僕も…」と言葉が続いて、お帰りになるもんだと履《ふ》んでいたあたしの前で、岩井君が自分が汚したテ―ブルの掃除を始める。さほど一生懸命でも無さそうなその様子に手を貸すのは止めた。お絞りを五枚汚してテーブルを拭き終わると、長い溜め息を一つ吐く。すると今度は、体に残った最後の体力まで一緒に吐き出したのか、崩れ落ちる様に椅子に腰を落とした。「はは…。終わった…」
 カラ・コロ・カラン──
 開け放したままだった引き戸を閉めて、凜がカウンタ―の中に戻って来る。てっきり専務の後を追って帰ると思っていた男がカウンタ―に座り直した事で、皆が何とはなしに違和感を感じてどうにもしっくりこない空気が店内を満たしている。あたし自身もどうしたものか、その対応を考えあぐねていた。
 煙管を吹かすきむ爺の顔付きも、あたしに答えを教えようとはしていない。
「何か飲みますか?」と、凜。
「えっ?」思わず答えたのはあたし。
 岩井君にこれ以上酒を飲む心積もりがあるとは思えなかったけど、目の前に置かれたコップは確かに空っぽ。ならばここが呑み屋である以上、盃が空なら、凜が言ったのは至極当たり前の文句だった。只、それを口にしたのが凜だという事にちょっと驚いただけ。
「あ…じゃあ…、オレンジジュ―ス下さい」

 グラスに月形にカットしたオレンジを飾っていると、誰かに語り掛けると言った感じでは無く、かと言って独り言にしては聞き流す事の出来ないボリュ―ムで岩井君が話し始めた。
「はは…情け無いですよね僕。…自分でも分かってるんです。でもね、さっき迄ここに座っていたあの人はうちの会社の専務で、社長の息子さんなんですよ。…先月、僕のミスでレンタルしてる機械を壊してしまって…。何百万もするんです、その機械…。それを専務の一存で、正常に使用していた上での故障という事にしてくれて。機械も翌日には新しいのが来て…、助けて貰ったんです。その後、言う事を聞いてれば弁償しなくてもいい様にしてやるって言われて、だから…」
 突然のこの独白に、流れから考えて当然凜が相手をするのかと思って顔を向けると、丸椅子に腰掛け、岩井君の話しに頻《しき》りに頷きを返していた。──と思ったら、今頃になって練習の疲れが出たのか、居眠りしてやがる!
 凜にしてみれば、あたしの真似をして「何か飲みますか」って聞いてみただけの事。話し相手をする心算《つもり》なんぞこれっぽっちも無かったらしい。恐るべし天然のツンデレラ。
 親友から送られた突然のキラ―パスに声を無くすあたし。一応、話しは聞いてたけど、相手をするのは正直…しんどい。それでも、平然と無視する度胸も持ち合わせていないあたしは、取り敢えずオレンジジュ―スと一緒に何の捻りも無い相槌を置いてみる事しか出来なかった。
「何だか大変そうですね」
「はあ…。でも…それも終わったみたいです。何がいけなかったのか、機嫌を損ねてしまったみたいだし、専務も言ってた通り、明日になったらクビになってオシマイですよ。はは…」
「…それはうちの店が気に入らなかっただけで、お客さんの所為じゃ無いから…大丈夫ですよきっと」
 そこで座ってる爺さんが帰らせたとは口が滑っても言えない。当のきむ爺は煙管片手に、惡戯《いたずら》を咎めるあたしの視線を文字通り煙に巻いている。
「はぁ―あ、ホント鈍臭いんですよね僕って。自分でも厭になる位です。前の会社でも失敗ばかりで居づらくなって、一年も経たない内に辞めました。それから一年位フリ―タ―やって、ネットで今の会社見つけて…。3ヶ月、後1ヶ月経てば正社員になれるって話だったから我慢してたんですけど…。上手く行かないもんですね…。すいません。勝手に愚痴ばかり言って…帰ります…お会計して下さい」
「いらねえよ」
 煙の中からきむ爺の声だけがのっそりと進み出て、財布に掛かった岩井君の手を止めた。
「えっ?」と岩井君。
「明日暇《いとま》を出されるかも知れねえと聞いちゃ、銭取る訳にはいかねえだろ。あの野郎追い返しちまったのには、俺にもちぃ―とは責任もあるしなあ。でもなあお兄さん、余計なお世話の序でに言わして貰えば、今のまんまのお前さんじゃ何処の会社に入ったって、長続きなんざしやしねえよ」
「はあ…」と答えた岩井君の顔に、又あの意味不明の笑顔が浮かぶ。
「先《ま》ずその顔をなんとかしねえとな。お前さんが何喋ったって、今作ってるその顔が、口から出る言葉全部を薄っぺらなもんにしちまって、聞いてる相手の中になぁんにも残りゃあしねえ。人間て奴あ、自分と話してる相手が正味の気持ちで自分の事を相手にしてるかどうかは、子供にだって伝わっちまうもんなんだ。お前さんの場合は仕事で下手打っただなんだ言う前に、子供なら誰でも出来る真正面から人と付き合うってえ事をやらねえと、行く場所が変わったってえ、他は何にも変わらねえだろうよ」
 きむ爺の言葉に顔を僅かに歪めて、目出度さの欠片も見せなかった、名前だけは"いわい"君が店を出て行く。
 その背中が引き戸の向こうに消える。と、まるで店の中の空気を一掃するみたいに姉様達御三方の溜め息がコ―ラスで聴こえた。
「なんだかなあ…。ちょいと早えが明日っから休みにしちまおう」
 カウンタ―を片付けるあたしに異論があろう筈も無い。
「ふうぅぅぅっと…」
 きむ爺の吐いた煙の固まりが、プカリと宙に浮かび上がり蛍光灯に触れゆっくりと解《ほど》けた。
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