君とみた星
「あなたと一緒に星を見る……私は、それをとても幸せな事だと感じているわ」
森を抜けた小高い丘の上。並んで座り空を見上げている二人の若い男女。二人が見上げる夜空には、真っ黒な漆器に金粉を撒き散らした様にたくさんの星々が二人の頭上へと降り注がんばかりに煌めいている。
「颯太……この手が……なきゃ良いのにね……」
二人の手はしっかりと握られていた。
「ねぇ……あの星の名前は?」
少女が星空を見つめたまま指さし聞いた。
「あれは……こと座のベガ、一等星だよ。それと、あのはくちょう座のデネブとわし座のアルタイルを結んだのが、夏の大三角形」
少年も星空から目を離さず、まるで自己主張するかの様に他の星々よりも輝いている三つの星をなぞりながら答える。そして、少女は次々に少年へと質問をしていく。一通り、少年が答え終わると少女ははぁと息を漏らした。
少女は星空から少年の方へと顔を向けると、膝の上に頭を乗せじっと見つめている。大きなその瞳はまるで少年の姿を少しでも多く心に焼き付け様としているようだった。
「こんなに星空が綺麗だったなんて……あなたに出会わなければ知らなかったわ……」
「僕も、君と出会わなければ……星は一人で見るものだと思っていたよ。二人で星を見ることががこんなにも……」
そんな少女を見つめ返し話していた少年の言葉が止まる。微笑む少女の頬に一筋の涙が伝っていたからだ。
「……あれ、どうしたんだろう。泣かないって決めてたのに」
一度流溢れ出した涙は堰を切った様に止まる事なく、少女の瞳からぽろぽろ、ぽろぽろと流れ落ちていく。
「……ごめんね……最後だから笑顔でお別れしようと思ってたんだけど……」
次から次へと溢れ出し、止まらない涙を必死で拭おうとする少女のその華奢な体を少年が抱きしめた。強く抱きしめると壊れそうだったが、少年は少女を抱きしめる腕に力をこめた。
「良いよ……僕は君の色んな表情を心に焼き付け時たいんだ……また、出会えて……一緒に星を見れるその時まで……」
少女も少年の背中へと腕をまわす。そして、その肩に顔を埋め、静かに咽び泣いている。腕の中で悲しみの為に震えている少女の頭を優しく撫でる少年。しばらく経つと少女が顔を上げた。泣き腫らした大きな黒い瞳は潤いが残りまるで宝石の様で、その瞼は涙のせいか火照っていた。
少年をじっと見つめる少女。その桜色をした唇に少年はそっと自分の唇を重ねた。別れの時が近付いている事に抗う様に二人は何度も唇を離しては重ねている。
そして、ゆっくりと体が地面へと倒れていく。二人はそのまま強く互いを求め合い、抱き合った。互いの体に二人の跡を刻み込もうとしているかの様に。
それから少年、颯太は大学を卒業して就職し、何年か経つと高校二年の夏まで過ごしていた町へと転勤する事となった。
この町に足を踏み入れたのは、約十年振りである。
あれきりあの少女、聖とは再開しないままであった。あの後、颯太の転校で離れ離れになった後も電話やメールでのやり取りが続いており、聖も颯太と同じ大学を受けると言っていた。だが、高三の初冬頃、ぱたりと途絶えてしまった。いくら颯太から連絡しても繋がらなかったのである。
それから颯太は色んな女性と恋に落ち、付き合い、そして別れてきた。
それでも聖の事をふとした時に思い出してしまう。
駅から出た颯太は、一先ず、転勤先の職場へと挨拶する為に向かった。そこは駅から徒歩十五分程歩いた所にある。タクシーを拾うか迷ったが、最近は運動不足であるという事もあり徒歩で行く事を選んだ。
久しぶりに通る駅前の桜並木。その駅へと行き来する人達の心を癒す桜のトンネルは、十年経った今も変わらずにそこで満開の花を咲かせている。
「颯太……あなたは少し桜にも目を向けるべきよ?」
颯太の数歩先に、紺色のブレザーに緑のタータンチェックのスカート姿の聖がいる。否、実際にいた訳では無い。颯太の頭の中に、あの頃の記憶が蘇っていただけなのだ。
颯太は少年の頃、星ばかりに夢中で、駅前の桜並木などに目もくれていなかった。そんな颯太を聖は桜並木へと連れ出しそう言った。
そんな桜並木に咲き乱れる桜をぼんやりと見つめていた颯太の後ろから、ちりんちりんと自転車のベルがなる。思い出から現実へと引き戻された颯太は慌てて道の端へと避けた。
新しい職場への挨拶を済ませた帰り道、颯太は新居へ行く途中、高二まで過ごした思い出の町を歩いている。
颯太が通っていた小中学校。友達と日が暮れるまで遊んだ公園。よく釣りをしていた細い川。どれもがあの時とあまり変わっていなかった。
そして母校である高校。まだ授業中なのか運動場から高校生らしい明るく元気な声が聞こえてくる。
「ほら……颯太、急いでよ。あなたに合わせてたら、私まで遅刻するわ」
少し睨む様な表情で僕の手を引っ張り走る聖。僕はそれに甘える様について行っていく。
「颯太……ほら、寝癖ついてるわ」
「颯太、あなた今日こそ忘れ物してないわよね」
「颯太……」
「颯太……」
「颯太……」
いつも颯太の世話を焼く聖。影で夫婦と呼ばれているくらいに周りからは公認のカップルであり、常に一緒にいた。
懐かしな……
そう独りごちる颯太はふわりと吹く春の風に頬を撫でられ目を細めた。そしてもう一度、校舎へと目をやると母校を後にし新居へと向かった。
それから颯太は転勤先の職場で慌ただしい日々を送っていた。その間も、数人の旧友達と再開し、呑みに行ったり、出掛けたりしていたが、忙しさのあまり聖の事を思い出す事は少なくなっていた。
そして、季節は心地よい風が吹く眠気を誘う春から、これでもかと自己主張する太陽が放つ暴力的な陽射しの降り注ぐ夏へと変わった。
とある午後。真夏の太陽が容赦なくアスファルトを焦がし、その上を歩く颯太の額に玉の様に吹き出す汗は、拭っても拭っても止まる事がない。仕方なく立ち止まった颯太はネクタイを緩め、ほうっとため息を一つついた。
「どこかで休むかな……」
辺りを見回すと、ふと懐かしい喫茶店の看板が目に入ってきた。
高校時代の級友の両親が営んでいた喫茶店で、その娘である級友もよく店を手伝っており、颯太も聖や、男友達と学校帰りに立ち寄っていた。
「まだやってたんだ……」
良い言い方をすれば趣のある、悪い言い方をすれば古くてぼろい。そんな喫茶店である。
太陽からの陽射しとアスファルトの照り返しから逃げる為に、そして、その懐かしさに引き寄せられて颯太は喫茶店の扉に手を掛け、ゆっくりと開いていく。
カランコロン……
当時と変わらないカウベルの音。
「いらっしゃいませ」
洗い物をしていた女性が店へと入ってきた颯太の方へ挨拶をし顔を向ける。颯太はその女性とばちりと目があった。
「もしかして……颯太?え、え、何年ぶり?」
カウンターにいた女性は元級友であり、喫茶店のオーナーの娘である楓が、店に入ってきた颯太に気づくとカウンターから転げ落ちんばかりに身を乗り出した。
「やぁ、楓。約十年振りかな?」
「何よ?帰ってきてたなら、連絡してよ」
十年という年月は幼さが残っていた十七歳の可愛らしかった少女を、すっかり綺麗な大人の女性へと変貌させていた。
変わらない町並みに変わりゆく人々。
楓は、入り口に立っている颯太を奥の席へと座らせると、オーナーである父親に一声掛け、自分も颯太の前の席へと座った。
昔からよく喋りよく笑う子であった。そして、聖ととても仲が良く、颯太に聖を紹介し二人が交際する切っ掛けとなったのも楓である。
二人はしばらくの間、昔の事や現在の状況を話していた。
「そう言えば、聖は元気にしてる?」
颯太が聖の近況を聞くのはどうかと少し迷ったが、思い切って尋ねてみた。
「……え?颯太、何も知らないの?」
すると、それまでにこにこと笑顔で話しをしていた楓の表情が驚きへと変わった。
「……あの子、颯太が引っ越した次の年……高三の冬に交通事故で亡くなったわよ」
楓の口から思いもよらぬ言葉が飛び出してきた。
「……え?」
聖が交通事故で亡くなっていたなんて……颯太は頭の中が真っ白になった。
「あの頃、聖が塾に通ってたのは知ってたよね?」
「あぁ……」
「颯太と同じ大学受けるんだって、また颯太と……あの子、とても頑張っていたんだけど、その帰り道に……飲酒運転の車に」
それは聖からメールや電話が途絶えた頃と重なる。いくらメールを送っても、電話を掛けても繋がらないはずだった……颯太はその当時、聖に好きな人か彼氏が出来たのではと思い、諦めてしまっていた。
青ざめていた颯太を心配し引き留め様としていた楓をよそにふらふらとした足取りで喫茶店を出た。
それからの颯太は仕事に没頭した。そして、お盆休みに入ると高校時代に何度かお邪魔した事のある聖の実家へと向かった。
呼び鈴を押すと、中から女性の声がスピーカー越しに聞こえてくる。聖の母親の声。はっきりとは憶えていなかったが、聞いた事のある懐かしい声だ。
颯太は自分の名前とこれまでの経緯を簡単に述べると、ばたばたと慌ただしい物音がして玄関の扉が開いた。
そこには約十年という年月のせいで老けてしまっていたが、あの頃の面影を十分に残している聖の母親が姿を現した。
「……久しぶりね、颯太くん」
懐かしそうに颯太を見つめていた母親から、どうぞと招かれ、客間へと通された颯太。
颯太は今まで来れなかったお詫びを言うと深々と頭を下げた。それを見た母親が慌てて颯太に頭を上げてもらうと、聖のいる和室へと案内してくれた。
仏壇にはあの頃の聖の花が咲いた様な笑顔で写った写真が飾られている。
その写真を見た颯太の頭の中に、今まではっきりとは思い出せなかった聖とのセピア色の思い出が、たくさんの色で鮮やかに染まっていくのが分かった。
「颯太……この手がずっと離れなきゃ良いのにね……」
たくさんの思い出が走馬灯の様に、颯太の頭の中に甦る。本当につい最近体験したかの様に。
ぼろぼろと溢れてくる涙。
こんなにも聖との思い出が心の中に刻まれていたなんて……
しばらく、母親と聖の思い出話しや世間話しをしていたが、もう一箇所、どうしても行かなければならない大切な場所がある事から、母親にもう少しと引き留められたがそれをやんわりと断り、聖の家を後にした。
どうしても行かなければならない場所。
それは二人の最後の思い出となった、あの丘である。
一度、自宅へと戻り軽装へと着替えなおした颯太。
颯太は、空が鉄紺色と赤橙色のグラデーションに染まり、落ち行く太陽が山の間へと消えていくのを窓から確認すると、車に乗り込みエンジンを掛けた。
車を駐車場に停め、森の中へと続く入り口に立ち止まり、その奥を見つめる。
「……何か出そうだって?……颯太、怖いの?ほら、私に手を繋いで欲しいんでしょ?」
あの時の聖は自分が怖かったくせに強がっていた。いかにも颯太が手を繋いで欲しいと言っている様な素振りで手を伸ばして来たのを思い出しくすりと笑う。
ゆっくりと森の中を進む。木製の手摺が少し傷んではいたが、やはりここも大きな変わりはない。
懐中電灯の明かりを頼りにしばらく歩いていると視界が開き、思い出の丘の上へと出た。
あの時と同じ夜空が広がっている。
すっかり陽が落ち空は墨色一色となり、その広いキャンバスにたくさんの宝石をばら蒔いたかの様に星達が光り輝いている。
地面に腰を下ろし星空を見上げる。
「ねぇ……颯太。あの星は何?」
「あれは、さそり座のアンタレスだよ」
「天の川はどこにあるの?」
「ほら、あそこだよ」
「あれが天の川……綺麗だね」
あの頃の思い出が鮮明に甦り、まるで隣に聖がいる様な錯覚に陥ってしまう。
「聖……君は全然、星の事を知らなかったよね……授業でも習ってたはずなのに」
ふふっと笑いながら呟いた颯太。するとふわりとした風が吹き、颯太の体を優しく包んでいく。
「なによ……颯太の癖に、生意気よ」
風の中に聖の声が聞こえてきた。
颯太にやり込められると口に出る聖の言葉。
「あぁ、ごめんな」
独り言の様に謝る颯太に、また風がふわりと吹いてくる。
「良いわ、許してあげる」
それを最後に颯太を包み込んでいた風が、颯太を置いて去っていく。
聖と交際する前は一人で星を見る事しか知らなかった。
そして、聖と交際して二人で星を見る楽しさを知った。
「聖……思い出をありがとう……」
颯太はゆっくりと立ち上がり、もう一度、星空を眺めながら、小さな声で言った。
森を抜けた小高い丘の上。並んで座り空を見上げている二人の若い男女。二人が見上げる夜空には、真っ黒な漆器に金粉を撒き散らした様にたくさんの星々が二人の頭上へと降り注がんばかりに煌めいている。
「颯太……この手が……なきゃ良いのにね……」
二人の手はしっかりと握られていた。
「ねぇ……あの星の名前は?」
少女が星空を見つめたまま指さし聞いた。
「あれは……こと座のベガ、一等星だよ。それと、あのはくちょう座のデネブとわし座のアルタイルを結んだのが、夏の大三角形」
少年も星空から目を離さず、まるで自己主張するかの様に他の星々よりも輝いている三つの星をなぞりながら答える。そして、少女は次々に少年へと質問をしていく。一通り、少年が答え終わると少女ははぁと息を漏らした。
少女は星空から少年の方へと顔を向けると、膝の上に頭を乗せじっと見つめている。大きなその瞳はまるで少年の姿を少しでも多く心に焼き付け様としているようだった。
「こんなに星空が綺麗だったなんて……あなたに出会わなければ知らなかったわ……」
「僕も、君と出会わなければ……星は一人で見るものだと思っていたよ。二人で星を見ることががこんなにも……」
そんな少女を見つめ返し話していた少年の言葉が止まる。微笑む少女の頬に一筋の涙が伝っていたからだ。
「……あれ、どうしたんだろう。泣かないって決めてたのに」
一度流溢れ出した涙は堰を切った様に止まる事なく、少女の瞳からぽろぽろ、ぽろぽろと流れ落ちていく。
「……ごめんね……最後だから笑顔でお別れしようと思ってたんだけど……」
次から次へと溢れ出し、止まらない涙を必死で拭おうとする少女のその華奢な体を少年が抱きしめた。強く抱きしめると壊れそうだったが、少年は少女を抱きしめる腕に力をこめた。
「良いよ……僕は君の色んな表情を心に焼き付け時たいんだ……また、出会えて……一緒に星を見れるその時まで……」
少女も少年の背中へと腕をまわす。そして、その肩に顔を埋め、静かに咽び泣いている。腕の中で悲しみの為に震えている少女の頭を優しく撫でる少年。しばらく経つと少女が顔を上げた。泣き腫らした大きな黒い瞳は潤いが残りまるで宝石の様で、その瞼は涙のせいか火照っていた。
少年をじっと見つめる少女。その桜色をした唇に少年はそっと自分の唇を重ねた。別れの時が近付いている事に抗う様に二人は何度も唇を離しては重ねている。
そして、ゆっくりと体が地面へと倒れていく。二人はそのまま強く互いを求め合い、抱き合った。互いの体に二人の跡を刻み込もうとしているかの様に。
それから少年、颯太は大学を卒業して就職し、何年か経つと高校二年の夏まで過ごしていた町へと転勤する事となった。
この町に足を踏み入れたのは、約十年振りである。
あれきりあの少女、聖とは再開しないままであった。あの後、颯太の転校で離れ離れになった後も電話やメールでのやり取りが続いており、聖も颯太と同じ大学を受けると言っていた。だが、高三の初冬頃、ぱたりと途絶えてしまった。いくら颯太から連絡しても繋がらなかったのである。
それから颯太は色んな女性と恋に落ち、付き合い、そして別れてきた。
それでも聖の事をふとした時に思い出してしまう。
駅から出た颯太は、一先ず、転勤先の職場へと挨拶する為に向かった。そこは駅から徒歩十五分程歩いた所にある。タクシーを拾うか迷ったが、最近は運動不足であるという事もあり徒歩で行く事を選んだ。
久しぶりに通る駅前の桜並木。その駅へと行き来する人達の心を癒す桜のトンネルは、十年経った今も変わらずにそこで満開の花を咲かせている。
「颯太……あなたは少し桜にも目を向けるべきよ?」
颯太の数歩先に、紺色のブレザーに緑のタータンチェックのスカート姿の聖がいる。否、実際にいた訳では無い。颯太の頭の中に、あの頃の記憶が蘇っていただけなのだ。
颯太は少年の頃、星ばかりに夢中で、駅前の桜並木などに目もくれていなかった。そんな颯太を聖は桜並木へと連れ出しそう言った。
そんな桜並木に咲き乱れる桜をぼんやりと見つめていた颯太の後ろから、ちりんちりんと自転車のベルがなる。思い出から現実へと引き戻された颯太は慌てて道の端へと避けた。
新しい職場への挨拶を済ませた帰り道、颯太は新居へ行く途中、高二まで過ごした思い出の町を歩いている。
颯太が通っていた小中学校。友達と日が暮れるまで遊んだ公園。よく釣りをしていた細い川。どれもがあの時とあまり変わっていなかった。
そして母校である高校。まだ授業中なのか運動場から高校生らしい明るく元気な声が聞こえてくる。
「ほら……颯太、急いでよ。あなたに合わせてたら、私まで遅刻するわ」
少し睨む様な表情で僕の手を引っ張り走る聖。僕はそれに甘える様について行っていく。
「颯太……ほら、寝癖ついてるわ」
「颯太、あなた今日こそ忘れ物してないわよね」
「颯太……」
「颯太……」
「颯太……」
いつも颯太の世話を焼く聖。影で夫婦と呼ばれているくらいに周りからは公認のカップルであり、常に一緒にいた。
懐かしな……
そう独りごちる颯太はふわりと吹く春の風に頬を撫でられ目を細めた。そしてもう一度、校舎へと目をやると母校を後にし新居へと向かった。
それから颯太は転勤先の職場で慌ただしい日々を送っていた。その間も、数人の旧友達と再開し、呑みに行ったり、出掛けたりしていたが、忙しさのあまり聖の事を思い出す事は少なくなっていた。
そして、季節は心地よい風が吹く眠気を誘う春から、これでもかと自己主張する太陽が放つ暴力的な陽射しの降り注ぐ夏へと変わった。
とある午後。真夏の太陽が容赦なくアスファルトを焦がし、その上を歩く颯太の額に玉の様に吹き出す汗は、拭っても拭っても止まる事がない。仕方なく立ち止まった颯太はネクタイを緩め、ほうっとため息を一つついた。
「どこかで休むかな……」
辺りを見回すと、ふと懐かしい喫茶店の看板が目に入ってきた。
高校時代の級友の両親が営んでいた喫茶店で、その娘である級友もよく店を手伝っており、颯太も聖や、男友達と学校帰りに立ち寄っていた。
「まだやってたんだ……」
良い言い方をすれば趣のある、悪い言い方をすれば古くてぼろい。そんな喫茶店である。
太陽からの陽射しとアスファルトの照り返しから逃げる為に、そして、その懐かしさに引き寄せられて颯太は喫茶店の扉に手を掛け、ゆっくりと開いていく。
カランコロン……
当時と変わらないカウベルの音。
「いらっしゃいませ」
洗い物をしていた女性が店へと入ってきた颯太の方へ挨拶をし顔を向ける。颯太はその女性とばちりと目があった。
「もしかして……颯太?え、え、何年ぶり?」
カウンターにいた女性は元級友であり、喫茶店のオーナーの娘である楓が、店に入ってきた颯太に気づくとカウンターから転げ落ちんばかりに身を乗り出した。
「やぁ、楓。約十年振りかな?」
「何よ?帰ってきてたなら、連絡してよ」
十年という年月は幼さが残っていた十七歳の可愛らしかった少女を、すっかり綺麗な大人の女性へと変貌させていた。
変わらない町並みに変わりゆく人々。
楓は、入り口に立っている颯太を奥の席へと座らせると、オーナーである父親に一声掛け、自分も颯太の前の席へと座った。
昔からよく喋りよく笑う子であった。そして、聖ととても仲が良く、颯太に聖を紹介し二人が交際する切っ掛けとなったのも楓である。
二人はしばらくの間、昔の事や現在の状況を話していた。
「そう言えば、聖は元気にしてる?」
颯太が聖の近況を聞くのはどうかと少し迷ったが、思い切って尋ねてみた。
「……え?颯太、何も知らないの?」
すると、それまでにこにこと笑顔で話しをしていた楓の表情が驚きへと変わった。
「……あの子、颯太が引っ越した次の年……高三の冬に交通事故で亡くなったわよ」
楓の口から思いもよらぬ言葉が飛び出してきた。
「……え?」
聖が交通事故で亡くなっていたなんて……颯太は頭の中が真っ白になった。
「あの頃、聖が塾に通ってたのは知ってたよね?」
「あぁ……」
「颯太と同じ大学受けるんだって、また颯太と……あの子、とても頑張っていたんだけど、その帰り道に……飲酒運転の車に」
それは聖からメールや電話が途絶えた頃と重なる。いくらメールを送っても、電話を掛けても繋がらないはずだった……颯太はその当時、聖に好きな人か彼氏が出来たのではと思い、諦めてしまっていた。
青ざめていた颯太を心配し引き留め様としていた楓をよそにふらふらとした足取りで喫茶店を出た。
それからの颯太は仕事に没頭した。そして、お盆休みに入ると高校時代に何度かお邪魔した事のある聖の実家へと向かった。
呼び鈴を押すと、中から女性の声がスピーカー越しに聞こえてくる。聖の母親の声。はっきりとは憶えていなかったが、聞いた事のある懐かしい声だ。
颯太は自分の名前とこれまでの経緯を簡単に述べると、ばたばたと慌ただしい物音がして玄関の扉が開いた。
そこには約十年という年月のせいで老けてしまっていたが、あの頃の面影を十分に残している聖の母親が姿を現した。
「……久しぶりね、颯太くん」
懐かしそうに颯太を見つめていた母親から、どうぞと招かれ、客間へと通された颯太。
颯太は今まで来れなかったお詫びを言うと深々と頭を下げた。それを見た母親が慌てて颯太に頭を上げてもらうと、聖のいる和室へと案内してくれた。
仏壇にはあの頃の聖の花が咲いた様な笑顔で写った写真が飾られている。
その写真を見た颯太の頭の中に、今まではっきりとは思い出せなかった聖とのセピア色の思い出が、たくさんの色で鮮やかに染まっていくのが分かった。
「颯太……この手がずっと離れなきゃ良いのにね……」
たくさんの思い出が走馬灯の様に、颯太の頭の中に甦る。本当につい最近体験したかの様に。
ぼろぼろと溢れてくる涙。
こんなにも聖との思い出が心の中に刻まれていたなんて……
しばらく、母親と聖の思い出話しや世間話しをしていたが、もう一箇所、どうしても行かなければならない大切な場所がある事から、母親にもう少しと引き留められたがそれをやんわりと断り、聖の家を後にした。
どうしても行かなければならない場所。
それは二人の最後の思い出となった、あの丘である。
一度、自宅へと戻り軽装へと着替えなおした颯太。
颯太は、空が鉄紺色と赤橙色のグラデーションに染まり、落ち行く太陽が山の間へと消えていくのを窓から確認すると、車に乗り込みエンジンを掛けた。
車を駐車場に停め、森の中へと続く入り口に立ち止まり、その奥を見つめる。
「……何か出そうだって?……颯太、怖いの?ほら、私に手を繋いで欲しいんでしょ?」
あの時の聖は自分が怖かったくせに強がっていた。いかにも颯太が手を繋いで欲しいと言っている様な素振りで手を伸ばして来たのを思い出しくすりと笑う。
ゆっくりと森の中を進む。木製の手摺が少し傷んではいたが、やはりここも大きな変わりはない。
懐中電灯の明かりを頼りにしばらく歩いていると視界が開き、思い出の丘の上へと出た。
あの時と同じ夜空が広がっている。
すっかり陽が落ち空は墨色一色となり、その広いキャンバスにたくさんの宝石をばら蒔いたかの様に星達が光り輝いている。
地面に腰を下ろし星空を見上げる。
「ねぇ……颯太。あの星は何?」
「あれは、さそり座のアンタレスだよ」
「天の川はどこにあるの?」
「ほら、あそこだよ」
「あれが天の川……綺麗だね」
あの頃の思い出が鮮明に甦り、まるで隣に聖がいる様な錯覚に陥ってしまう。
「聖……君は全然、星の事を知らなかったよね……授業でも習ってたはずなのに」
ふふっと笑いながら呟いた颯太。するとふわりとした風が吹き、颯太の体を優しく包んでいく。
「なによ……颯太の癖に、生意気よ」
風の中に聖の声が聞こえてきた。
颯太にやり込められると口に出る聖の言葉。
「あぁ、ごめんな」
独り言の様に謝る颯太に、また風がふわりと吹いてくる。
「良いわ、許してあげる」
それを最後に颯太を包み込んでいた風が、颯太を置いて去っていく。
聖と交際する前は一人で星を見る事しか知らなかった。
そして、聖と交際して二人で星を見る楽しさを知った。
「聖……思い出をありがとう……」
颯太はゆっくりと立ち上がり、もう一度、星空を眺めながら、小さな声で言った。