政略結婚を前提に恋愛しています
【Side:花婿B】
いつか、この日が来るのを、ずっと恐れていた。
愛しくて堪らないこの娘が、俺の花嫁となる、今日のこの日を。
昔は、ただ妹のように愛しんでいられた。
この娘も俺を兄のように慕い、「兄様」と呼んで甘えてくれた。
だけど、それは結局ままごとのような“兄妹ゴッコ”でしかない。
その関係が終わりを告げる日を、恐れながらも、待っていた。
許嫁という関係は、他に恋する相手がいないなら、とても便利で都合の良いものなのではないだろうか。
想いを告げなくても、相手に好きになってもらわずとも、時が来れば自然と“花嫁”を手に入れられるのだから。
この娘は、妻として、これ以上ない相手だった。
家柄も、身分のつり合いも、容姿も、何もかも……。
ただひとつ、年の離れた彼女の、あまりに幼気で無邪気過ぎる振る舞いだけが、俺の心にわずかな陰を落としていた。
それはおそらく、刷り込みのようなものなのだろう。
未来の夫である俺に、彼女は何の疑いも無く懐き、無垢な愛情を注いでくれた。
初めて会ったその日から、当たり前に好意を向けてくれた。
年若いうちは、その好意を素直に受け止めていられた。
はしゃぎ、甘えて俺にまとわりつく彼女を、ただただ可愛いと思っていられた。
一緒にいてくれなければ嫌だと、泣いて駄々をこねられることもあったが……そんなにも俺のことを好いてくれているのかと、その気持ちが嬉しかった。
可愛くて、可愛くて、どんなワガママも、ついつい聞き入れてしまう。
我ながら、無責任な甘やかしだと、自分で自分に苦笑したものだ。
だが……可愛ければ可愛いほど、この娘が無邪気であればあるほど、いつかこの関係が失われてしまうことが怖くなった。
そんなに幼くとも、この娘もいずれは大人になる。
そして、やがては気づくだろう。
政略結婚というものが、おとぎ話の姫君の恋のように、純粋で美しいものではないということに。
ある程度以上の階級の人間になれば、結婚に家や派閥の思惑が絡むのは当たり前のことだ。元よりそれに愛情を求めないと言う人間も少なくない。
だが俺は、そこまで割り切ることはできない。だって、それでは寂し過ぎるじゃないか。
妻となる人間とは、きちんと相思相愛の関係でいたい。
俺がこの娘を愛するのは、息を吸うより簡単なことだ。
だけど、この娘の方はどうなのだろう。
今はまだ、家族への親愛の情と変わらないように見えるその想いが、ちゃんと恋へと育ってくれるのか……分からない。予測ができない。
許嫁という関係性は、時にとても歪で、非情なものなのではないだろうか。
想いを告げずとも、恋仲にならずとも、時が来ればこの娘は俺の花嫁となる。
たとえその時、この娘の心が俺のものではなかったとしても……。
許嫁だからと言って、愛さなければならない義務など無い。契約なんかで人の心を縛ることなどできない。
だが、俺はきっと婚約を盾に、この娘を逃がさないだろう。
それくらい、俺にとってこの娘は、大きな存在となってしまった。
この娘は、いつでも俺に笑いかけてくれる。
愛想笑いでも、何かを含んだ笑いでもない、純粋無垢なその笑顔は、いつでも俺を癒してくれた。
この娘は、いつでも俺の一番の味方でいてくれる。
父に叱られた時も、友と諍いを起こした時も、この娘だけはいつでも俺を全面的に信じ、支持してくれた。だから俺は、どんな時も、自分が孤独だと思わずに済んだ。
この娘は、いつでも俺に愛情を示してくれる。
「兄様、大好き」「世界で一番、兄様が好き」と。
いつでも無条件に愛情を向けてくれる人間がいる――そのことで、どれほど心が救われたか知れない。
どんなに傷つき、絶望しかけても、この娘の示す愛情が、俺の心の最後の砦だった。
こんなにも、俺の心の欠かせない基盤となってしまったこの娘を、今さら手放せるわけがない。
だが、昔は浴びるように聞いていた「好き」が、この娘が大きくなるにつれ、だんだん聞けなくなっていった。
以前は口をはさむ暇も無いくらいだったおしゃべりも、数が減り、会話が続かなくなっていった。
そのことに困惑しながらも、心のどこかで「やはり」と思う。
幼い愛は、いつまでも続かない。
刷り込みのような愛が消えた後、この娘の中には何が残っているのだろう。
もじもじし、困ったように俺を見上げる彼女の瞳からは、何も読み取れなかった。
その一方で、俺の方も彼女が成長するにつれ、後ろめたい想いを育てていた。
手足が伸び、娘らしい身体つきへと育っていく彼女を、昔のように純粋なだけの愛情で見ることができない。
もう、妹のように慈しむことなど、できはしない。
妹だったら、とてもできないようなことを、頭の中でいろいろ想像してしまっているのだから。
この頭の中身を、彼女に知られるのが恐ろしかった。
軽蔑され、嫌悪の目を向けられることを考えただけで、生きた心地がしない。なのに、膨らむ妄想を制御することもできない。
俺は、この娘が可愛い。真綿でくるむように、大事に大事にしたい。
なのにその一方で、酷いことをして泣かせたいとも思っている。
心と肉体がばらばらで、自分が自分を裏切っているようだ。
こんな状態で婚儀を迎えて、この娘を優しく愛してやれるだろうか……。
悩んでも、迷っても、婚礼の日はやって来る。
そうして迎えた新婚初夜。
夜着ひとつを身にまとった無防備な新妻を前に、俺は凍りついたように動けずにいた。
何もしたくないわけではない。むしろ、逆だ。
心臓が皮膚を突き破って出て来るのではないかと思うほど、脈が荒々しく暴れ狂っている。
乱暴にしたくない、怖がらせたくないという思いと、いっそ獣のように襲いかかり、奪ってしまいたいという衝動がせめぎ合う。
それが俺の身体を、指一本も動かせずに硬直させていた。
「あの……旦那様……?」
彼女が、これまでとは違う呼び名で俺を呼ぶ。
「あの……私は……どうしたら……?」
おずおずと顔を覗き込まれて……思わず乱暴に手を引いていた。
その身を抱き締め、その小柄さを改めて確認する。
こんなにも頼りない肉体に、俺は何をしようとしているのだろう。
「分かっているのか、お前は。これから何をされるか」
問うと、彼女は戸惑ったように答えを返す。
「……はい。知識だけは、ちゃんと教わって来ましたから」
知識だけ……その言葉に、フッと苦笑が漏れる。
箱入りの彼女に、経験などあるはずもない。しかし知識は与えられたというその事実が、何だかおかしく思えた。
出逢ったばかりの頃の彼女は、結婚がどういうものかも知らぬ子どもだったのに……。
「出逢ったばかりの頃は、あんなに小さかったのに……」
何だか、不思議な感じがする。あの頃の無邪気な少女が、今こうして腕の中にいると思うと、いけないことをしている気分が強くなる。
汚れずに、このままでいて欲しい。なのに、まだ真っ白でまっさらなこの娘に、俺が最初の色をつけたいとも思う。
「それは……ほんの幼子でしたもの。でも、今はもう大人です」
自分はもう大人だと、彼女は主張する。だが俺の中のこの娘のイメージは、いまもまだ幼く、あどけないままだ。
「腕も腰も、まだこんなに華奢なくせに……」
細さを確かめるように触れた指先に、ビクリと反応されて、ざわりと欲望が疼く。
これは、危険な衝動だ。流されてはいけない、この娘を傷つけるかも知れない衝動だ。
「俺は、お前を壊してしまうのが怖い。俺は酷い男だ。それでもお前は、俺を愛してくれるか?」
問いの形をとりながらも、俺の両手はこの娘を逃すつもりはない。
悩み、迷い、この娘を慮るフリをしながらも、俺は内心、この日をずっと心待ちにしてきたのだ。
この娘の全てを、自分の思うまま、すっかり手に入れることを夢見て、想像して……けれど同時に、そんなことをしてしまいそうな自分を、恐れていた。
この期に及んで迷い躊躇う俺の頬に、彼女がそっと指を触れた。
そしてその小さな唇から、思いがけない言葉をくれた。
「……怖がらないで、兄……旦那様。私、一方的にされるばかりじゃありません。だって、これは、二人で探って、深めて、育んでいくものでしょう?」
はっと、胸を突かれる思いだった。
俺は、ただ自分がすることばかりを考えて、大事なことを忘れていた。
情を交わすとは、一方的にすることでも、されることでもない。
ただ欲を発散させるためだけのものでも、夫婦の務めとして果たすだけのものでもない。
そしてこの娘は、俺とそれを交わすことを望んでくれているのだ。
「大好きです……旦那様」
彼女が、かつてのような素直な言葉を告げてくる。その指が、何かを求めるように、俺の頬を撫でる。
かつては何十回、何百回と聞いた愛の告白。
だが俺は、この娘に答えを返したことがあっただろうか。
婚約者なのだから、言わなくても分かるだろうとばかりに、言葉にして来なかったように思う。
「ああ。俺も……お前が好きだ」
当たり前のことだと思ってきた、彼女への愛情。
だが、口にすると、余計に愛しさが増し、胸から溢れ出してくる気がする。
華奢な身体をゆっくりと押し倒し、布団の海に沈めながら、俺は自分に言い聞かせる。
大切にする。優しくする。ゆっくりと、怖がらせないように、丁寧に繊細に可愛がる。
一方的に奪うわけでなく、一方的に尽くすわけでもなく……これまでは知ることのなかった互いの深い部分まで、さらけ出し合って、触れ合って、気持ちも肉体も快楽も、ひとつひとつ結び合っていく。
……そうだな。確かにこれは、二人で探って、深めて、育んでいくものだ。
幼い頃からずっと見てきて、よく知っているつもりでいたこの娘に、まだまだ知らない面があったことを、この夜の中で知る。
それはきっと、彼女の方も同じだろう。
綺麗に取り繕った上辺の部分だけでなく、もっと本能的で浅ましく、時に醜くさえ思える部分を互いに知ってしまっても……それでも、出逢った頃から続く「好き」が、この先もずっと続いていけばいい。
この娘が、おそらく初めて知るであろう欲望を、優しく暴き出しながら、俺は頭の片隅でそんなことを願った。
愛しくて堪らないこの娘が、俺の花嫁となる、今日のこの日を。
昔は、ただ妹のように愛しんでいられた。
この娘も俺を兄のように慕い、「兄様」と呼んで甘えてくれた。
だけど、それは結局ままごとのような“兄妹ゴッコ”でしかない。
その関係が終わりを告げる日を、恐れながらも、待っていた。
許嫁という関係は、他に恋する相手がいないなら、とても便利で都合の良いものなのではないだろうか。
想いを告げなくても、相手に好きになってもらわずとも、時が来れば自然と“花嫁”を手に入れられるのだから。
この娘は、妻として、これ以上ない相手だった。
家柄も、身分のつり合いも、容姿も、何もかも……。
ただひとつ、年の離れた彼女の、あまりに幼気で無邪気過ぎる振る舞いだけが、俺の心にわずかな陰を落としていた。
それはおそらく、刷り込みのようなものなのだろう。
未来の夫である俺に、彼女は何の疑いも無く懐き、無垢な愛情を注いでくれた。
初めて会ったその日から、当たり前に好意を向けてくれた。
年若いうちは、その好意を素直に受け止めていられた。
はしゃぎ、甘えて俺にまとわりつく彼女を、ただただ可愛いと思っていられた。
一緒にいてくれなければ嫌だと、泣いて駄々をこねられることもあったが……そんなにも俺のことを好いてくれているのかと、その気持ちが嬉しかった。
可愛くて、可愛くて、どんなワガママも、ついつい聞き入れてしまう。
我ながら、無責任な甘やかしだと、自分で自分に苦笑したものだ。
だが……可愛ければ可愛いほど、この娘が無邪気であればあるほど、いつかこの関係が失われてしまうことが怖くなった。
そんなに幼くとも、この娘もいずれは大人になる。
そして、やがては気づくだろう。
政略結婚というものが、おとぎ話の姫君の恋のように、純粋で美しいものではないということに。
ある程度以上の階級の人間になれば、結婚に家や派閥の思惑が絡むのは当たり前のことだ。元よりそれに愛情を求めないと言う人間も少なくない。
だが俺は、そこまで割り切ることはできない。だって、それでは寂し過ぎるじゃないか。
妻となる人間とは、きちんと相思相愛の関係でいたい。
俺がこの娘を愛するのは、息を吸うより簡単なことだ。
だけど、この娘の方はどうなのだろう。
今はまだ、家族への親愛の情と変わらないように見えるその想いが、ちゃんと恋へと育ってくれるのか……分からない。予測ができない。
許嫁という関係性は、時にとても歪で、非情なものなのではないだろうか。
想いを告げずとも、恋仲にならずとも、時が来ればこの娘は俺の花嫁となる。
たとえその時、この娘の心が俺のものではなかったとしても……。
許嫁だからと言って、愛さなければならない義務など無い。契約なんかで人の心を縛ることなどできない。
だが、俺はきっと婚約を盾に、この娘を逃がさないだろう。
それくらい、俺にとってこの娘は、大きな存在となってしまった。
この娘は、いつでも俺に笑いかけてくれる。
愛想笑いでも、何かを含んだ笑いでもない、純粋無垢なその笑顔は、いつでも俺を癒してくれた。
この娘は、いつでも俺の一番の味方でいてくれる。
父に叱られた時も、友と諍いを起こした時も、この娘だけはいつでも俺を全面的に信じ、支持してくれた。だから俺は、どんな時も、自分が孤独だと思わずに済んだ。
この娘は、いつでも俺に愛情を示してくれる。
「兄様、大好き」「世界で一番、兄様が好き」と。
いつでも無条件に愛情を向けてくれる人間がいる――そのことで、どれほど心が救われたか知れない。
どんなに傷つき、絶望しかけても、この娘の示す愛情が、俺の心の最後の砦だった。
こんなにも、俺の心の欠かせない基盤となってしまったこの娘を、今さら手放せるわけがない。
だが、昔は浴びるように聞いていた「好き」が、この娘が大きくなるにつれ、だんだん聞けなくなっていった。
以前は口をはさむ暇も無いくらいだったおしゃべりも、数が減り、会話が続かなくなっていった。
そのことに困惑しながらも、心のどこかで「やはり」と思う。
幼い愛は、いつまでも続かない。
刷り込みのような愛が消えた後、この娘の中には何が残っているのだろう。
もじもじし、困ったように俺を見上げる彼女の瞳からは、何も読み取れなかった。
その一方で、俺の方も彼女が成長するにつれ、後ろめたい想いを育てていた。
手足が伸び、娘らしい身体つきへと育っていく彼女を、昔のように純粋なだけの愛情で見ることができない。
もう、妹のように慈しむことなど、できはしない。
妹だったら、とてもできないようなことを、頭の中でいろいろ想像してしまっているのだから。
この頭の中身を、彼女に知られるのが恐ろしかった。
軽蔑され、嫌悪の目を向けられることを考えただけで、生きた心地がしない。なのに、膨らむ妄想を制御することもできない。
俺は、この娘が可愛い。真綿でくるむように、大事に大事にしたい。
なのにその一方で、酷いことをして泣かせたいとも思っている。
心と肉体がばらばらで、自分が自分を裏切っているようだ。
こんな状態で婚儀を迎えて、この娘を優しく愛してやれるだろうか……。
悩んでも、迷っても、婚礼の日はやって来る。
そうして迎えた新婚初夜。
夜着ひとつを身にまとった無防備な新妻を前に、俺は凍りついたように動けずにいた。
何もしたくないわけではない。むしろ、逆だ。
心臓が皮膚を突き破って出て来るのではないかと思うほど、脈が荒々しく暴れ狂っている。
乱暴にしたくない、怖がらせたくないという思いと、いっそ獣のように襲いかかり、奪ってしまいたいという衝動がせめぎ合う。
それが俺の身体を、指一本も動かせずに硬直させていた。
「あの……旦那様……?」
彼女が、これまでとは違う呼び名で俺を呼ぶ。
「あの……私は……どうしたら……?」
おずおずと顔を覗き込まれて……思わず乱暴に手を引いていた。
その身を抱き締め、その小柄さを改めて確認する。
こんなにも頼りない肉体に、俺は何をしようとしているのだろう。
「分かっているのか、お前は。これから何をされるか」
問うと、彼女は戸惑ったように答えを返す。
「……はい。知識だけは、ちゃんと教わって来ましたから」
知識だけ……その言葉に、フッと苦笑が漏れる。
箱入りの彼女に、経験などあるはずもない。しかし知識は与えられたというその事実が、何だかおかしく思えた。
出逢ったばかりの頃の彼女は、結婚がどういうものかも知らぬ子どもだったのに……。
「出逢ったばかりの頃は、あんなに小さかったのに……」
何だか、不思議な感じがする。あの頃の無邪気な少女が、今こうして腕の中にいると思うと、いけないことをしている気分が強くなる。
汚れずに、このままでいて欲しい。なのに、まだ真っ白でまっさらなこの娘に、俺が最初の色をつけたいとも思う。
「それは……ほんの幼子でしたもの。でも、今はもう大人です」
自分はもう大人だと、彼女は主張する。だが俺の中のこの娘のイメージは、いまもまだ幼く、あどけないままだ。
「腕も腰も、まだこんなに華奢なくせに……」
細さを確かめるように触れた指先に、ビクリと反応されて、ざわりと欲望が疼く。
これは、危険な衝動だ。流されてはいけない、この娘を傷つけるかも知れない衝動だ。
「俺は、お前を壊してしまうのが怖い。俺は酷い男だ。それでもお前は、俺を愛してくれるか?」
問いの形をとりながらも、俺の両手はこの娘を逃すつもりはない。
悩み、迷い、この娘を慮るフリをしながらも、俺は内心、この日をずっと心待ちにしてきたのだ。
この娘の全てを、自分の思うまま、すっかり手に入れることを夢見て、想像して……けれど同時に、そんなことをしてしまいそうな自分を、恐れていた。
この期に及んで迷い躊躇う俺の頬に、彼女がそっと指を触れた。
そしてその小さな唇から、思いがけない言葉をくれた。
「……怖がらないで、兄……旦那様。私、一方的にされるばかりじゃありません。だって、これは、二人で探って、深めて、育んでいくものでしょう?」
はっと、胸を突かれる思いだった。
俺は、ただ自分がすることばかりを考えて、大事なことを忘れていた。
情を交わすとは、一方的にすることでも、されることでもない。
ただ欲を発散させるためだけのものでも、夫婦の務めとして果たすだけのものでもない。
そしてこの娘は、俺とそれを交わすことを望んでくれているのだ。
「大好きです……旦那様」
彼女が、かつてのような素直な言葉を告げてくる。その指が、何かを求めるように、俺の頬を撫でる。
かつては何十回、何百回と聞いた愛の告白。
だが俺は、この娘に答えを返したことがあっただろうか。
婚約者なのだから、言わなくても分かるだろうとばかりに、言葉にして来なかったように思う。
「ああ。俺も……お前が好きだ」
当たり前のことだと思ってきた、彼女への愛情。
だが、口にすると、余計に愛しさが増し、胸から溢れ出してくる気がする。
華奢な身体をゆっくりと押し倒し、布団の海に沈めながら、俺は自分に言い聞かせる。
大切にする。優しくする。ゆっくりと、怖がらせないように、丁寧に繊細に可愛がる。
一方的に奪うわけでなく、一方的に尽くすわけでもなく……これまでは知ることのなかった互いの深い部分まで、さらけ出し合って、触れ合って、気持ちも肉体も快楽も、ひとつひとつ結び合っていく。
……そうだな。確かにこれは、二人で探って、深めて、育んでいくものだ。
幼い頃からずっと見てきて、よく知っているつもりでいたこの娘に、まだまだ知らない面があったことを、この夜の中で知る。
それはきっと、彼女の方も同じだろう。
綺麗に取り繕った上辺の部分だけでなく、もっと本能的で浅ましく、時に醜くさえ思える部分を互いに知ってしまっても……それでも、出逢った頃から続く「好き」が、この先もずっと続いていけばいい。
この娘が、おそらく初めて知るであろう欲望を、優しく暴き出しながら、俺は頭の片隅でそんなことを願った。