無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
エルはネリウスがダンスを教えてくれるとを聞いて、少しでも勉強しておこうと図書室で指南書を探して読んだ。
けれど所詮は本だから、実際に踊るとなると話は別だ。本を参考に手足を動かしてみたが、上手くやれているか分からない。
最低限ステップ、ターンの仕方くらいは理解したつもりだが、一人でやると足がもつれて転びそうだった。
久しぶりにネリウスと会えると思うと心臓がうるさい。
せっかく会えるのに、こんなみっともないところを見られて幻滅されないか心配だった。
約束の時間が来たことを確認すると、屋敷内にあるにあるダンスホールに向かった。
ド胸がキドキする。今にも飛び出しそうな心臓の音を聞きながらダンスホールの扉を開けた。
ダンスホールに入るのは初めてだ。普段は施錠されているため一度も入ったことがなかった。人を招くことがほとんどないため長いこと使っていないとミラルカが言っていた。
広いホールには、豪華なシャンデリア、カーテン、高い天井には美しい絵が描かれていて、見た瞬間思わず溜息が漏れる。屋敷の中はどちらかといえば落ち着いた調度品が多いが、ここはそうではない。煌びやかで、まるで王宮のようだ。
その中央に、ネリウスが立っていた。
ネリウスがゆっくりと振り向く。エルがずっと会いたかった顔が見えた。
ホールの中央に立つネリウスはまるで役者のように美しい。ただ、その表情は以前と同じ無表情────いや、しかめっ面だろうか。
────もしかして、教えるのが嫌なのかな。そんな不安が湧く。
エルは震える手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりとネリウスに近づいた。ネリウスは何か言いたそうだったが、少し困ったように視線を逸らした。
「……本当にいいのか。無理して誘ってるわけじゃない。嫌なら断っても────」
エルは間髪入れず首を振った。
確かに、物凄く緊張していて足は震えている。でもそれは三年前の震えとは違った。
ネリウスはそっと手を差し出した。それに応えるように、エルはその手を取った。
「まずは基本のステップから教える。ゆっくりやるからついてこい」
ネリウスの手を取ったまま、エルは動きに合わせて足を動かした。
本で読んだ通りだ。だがなんとか動けたものの優雅には程遠い。それでもネリウスはエルがついてこれるように出来るだけゆっくりと動かしているようだ。ネリウスの方が動きづらそうに見えた。
「そうだ。そのあと右足を後ろに出す……左、右……」
エルはテンポよく足を動かした。
ネリウスの動きは慣れているように見えた。普段から踊り慣れているのだろう。
きっと、社交界で踊るのだ。ネリウスは貴族だ。小さい頃からずっとやっているのだろう。ダンスなんて呼吸と同じくらい簡単にしてしまうに違いない。
エルは頭の中でネリウスがどこかの女性と踊っている姿を想像した。ドレスを着た貴婦人と踊るネリウスは素敵だが、なんだか遠い。
違うことを考えたからか、うっかりがつまづいた。
とっさにネリウスの両手が伸びて、エルの身体を支えた。なんとか転ぶには至らなかったようだ。
「大丈夫か?」
ネリウスが心配そうに覗き込んだ。
────何を考えているんだろう。折角彼が時間を作ってくれたんだから、ちゃんと集中しなきゃいけないのに。
エルは再びネリウスの手を取ってステップを踏んだ。
こんなことを考えていたら足を引っ張りかねない。きちんと踊れないとせっかく教えてもらう意味がない。
「上達が早いな。さては、勉強してきただろう」
見透かされ、思わず恥ずかしくて目を逸らした。褒めてもらえるのは嬉しいが、ネリウスに言われると子供扱いされている気分になった。
それからしばらく踊った後、エルは少し休憩するため椅子に座った。一時間近く踊っていたからか、体力のない体はへとへとに疲れていた。
「大丈夫か? 無理そうならまた今度にするが……」
エルはやります! という意思を込めて首を横に振った。
「……この分ならワルツもすぐに覚えられるだろう。ちゃんと出来るようになるまでは面倒見てやるから安心しろ」
またぶっきら棒な言い方をされたが、ネリウスの言葉に優しさを感じてエルは微笑んだ。
けれど今日は紙もペンも持ってきていない。バラのお礼を伝えなければと思ったが、伝える方法がなくて途方にくれた。
喋れないと不便だ。思った時にすぐ伝えられない。
「礼ならいい。俺もバラのお返しをしただけだからな」
ネリウスはエルの言いたいことがわかったようだ。
エルは思っていたことを当てられて驚いた。同時に、ネリウスが理解してくれたことがとても嬉しかった。
やっぱりネリウスは思った通り優しい人だった。
練習が終わった後も、エルはそのままダンスホールに残って練習を続けた。ネリウスの手の感触を思い出しながら────。
あんなに近くにいたのに、不思議と嫌ではなかった。それどころか、距離を取ろうとするネリウスに近づこうとさえしていた。
ステップを踏むので精一杯で気が付かないふりをした、ネリウスはどう思っていたのだろう。
ネリウスと過ごした僅かな時間を思い出して、目を閉じる。ステップを踏みながら、目の前にネリウスがいるかのようにその手を差し出した。
ネリウスの手を握りしめている。ネリウスに身を任せている────そんな想像をしながら踊り続けた。
それは幸福な時間だった。自分が何者かさえ忘れてしまいそうになるほど、目の前の人に心を奪われていた。
────私は、どうしてこんなにネリウス様のことばかり考えているの……?
気がつくといつもネリウスのことを思い出している。それはバラをもらった時とは違う感情だ。
憧れだろうか。尊敬だろうか。それとも────。
エルは一瞬思い浮かんだ感情を、振り払うようにダンスホールから出た。
そんなことを考えてはいけない。自分は「ベッカー侯爵」の好意でここに住まわせてもらっているただの居候だ。自分なんか釣り合わない。ダンスが踊れるようになったくらいで調子に乗ってはいけない。
だけどそう思えば思うほど、自分の存在が悲しくなった。
ネリウスはまるで届かない楽園のような存在。自分は、そこを夢見るだけの旅人なのだ。
けれど所詮は本だから、実際に踊るとなると話は別だ。本を参考に手足を動かしてみたが、上手くやれているか分からない。
最低限ステップ、ターンの仕方くらいは理解したつもりだが、一人でやると足がもつれて転びそうだった。
久しぶりにネリウスと会えると思うと心臓がうるさい。
せっかく会えるのに、こんなみっともないところを見られて幻滅されないか心配だった。
約束の時間が来たことを確認すると、屋敷内にあるにあるダンスホールに向かった。
ド胸がキドキする。今にも飛び出しそうな心臓の音を聞きながらダンスホールの扉を開けた。
ダンスホールに入るのは初めてだ。普段は施錠されているため一度も入ったことがなかった。人を招くことがほとんどないため長いこと使っていないとミラルカが言っていた。
広いホールには、豪華なシャンデリア、カーテン、高い天井には美しい絵が描かれていて、見た瞬間思わず溜息が漏れる。屋敷の中はどちらかといえば落ち着いた調度品が多いが、ここはそうではない。煌びやかで、まるで王宮のようだ。
その中央に、ネリウスが立っていた。
ネリウスがゆっくりと振り向く。エルがずっと会いたかった顔が見えた。
ホールの中央に立つネリウスはまるで役者のように美しい。ただ、その表情は以前と同じ無表情────いや、しかめっ面だろうか。
────もしかして、教えるのが嫌なのかな。そんな不安が湧く。
エルは震える手をぎゅっと握りしめ、ゆっくりとネリウスに近づいた。ネリウスは何か言いたそうだったが、少し困ったように視線を逸らした。
「……本当にいいのか。無理して誘ってるわけじゃない。嫌なら断っても────」
エルは間髪入れず首を振った。
確かに、物凄く緊張していて足は震えている。でもそれは三年前の震えとは違った。
ネリウスはそっと手を差し出した。それに応えるように、エルはその手を取った。
「まずは基本のステップから教える。ゆっくりやるからついてこい」
ネリウスの手を取ったまま、エルは動きに合わせて足を動かした。
本で読んだ通りだ。だがなんとか動けたものの優雅には程遠い。それでもネリウスはエルがついてこれるように出来るだけゆっくりと動かしているようだ。ネリウスの方が動きづらそうに見えた。
「そうだ。そのあと右足を後ろに出す……左、右……」
エルはテンポよく足を動かした。
ネリウスの動きは慣れているように見えた。普段から踊り慣れているのだろう。
きっと、社交界で踊るのだ。ネリウスは貴族だ。小さい頃からずっとやっているのだろう。ダンスなんて呼吸と同じくらい簡単にしてしまうに違いない。
エルは頭の中でネリウスがどこかの女性と踊っている姿を想像した。ドレスを着た貴婦人と踊るネリウスは素敵だが、なんだか遠い。
違うことを考えたからか、うっかりがつまづいた。
とっさにネリウスの両手が伸びて、エルの身体を支えた。なんとか転ぶには至らなかったようだ。
「大丈夫か?」
ネリウスが心配そうに覗き込んだ。
────何を考えているんだろう。折角彼が時間を作ってくれたんだから、ちゃんと集中しなきゃいけないのに。
エルは再びネリウスの手を取ってステップを踏んだ。
こんなことを考えていたら足を引っ張りかねない。きちんと踊れないとせっかく教えてもらう意味がない。
「上達が早いな。さては、勉強してきただろう」
見透かされ、思わず恥ずかしくて目を逸らした。褒めてもらえるのは嬉しいが、ネリウスに言われると子供扱いされている気分になった。
それからしばらく踊った後、エルは少し休憩するため椅子に座った。一時間近く踊っていたからか、体力のない体はへとへとに疲れていた。
「大丈夫か? 無理そうならまた今度にするが……」
エルはやります! という意思を込めて首を横に振った。
「……この分ならワルツもすぐに覚えられるだろう。ちゃんと出来るようになるまでは面倒見てやるから安心しろ」
またぶっきら棒な言い方をされたが、ネリウスの言葉に優しさを感じてエルは微笑んだ。
けれど今日は紙もペンも持ってきていない。バラのお礼を伝えなければと思ったが、伝える方法がなくて途方にくれた。
喋れないと不便だ。思った時にすぐ伝えられない。
「礼ならいい。俺もバラのお返しをしただけだからな」
ネリウスはエルの言いたいことがわかったようだ。
エルは思っていたことを当てられて驚いた。同時に、ネリウスが理解してくれたことがとても嬉しかった。
やっぱりネリウスは思った通り優しい人だった。
練習が終わった後も、エルはそのままダンスホールに残って練習を続けた。ネリウスの手の感触を思い出しながら────。
あんなに近くにいたのに、不思議と嫌ではなかった。それどころか、距離を取ろうとするネリウスに近づこうとさえしていた。
ステップを踏むので精一杯で気が付かないふりをした、ネリウスはどう思っていたのだろう。
ネリウスと過ごした僅かな時間を思い出して、目を閉じる。ステップを踏みながら、目の前にネリウスがいるかのようにその手を差し出した。
ネリウスの手を握りしめている。ネリウスに身を任せている────そんな想像をしながら踊り続けた。
それは幸福な時間だった。自分が何者かさえ忘れてしまいそうになるほど、目の前の人に心を奪われていた。
────私は、どうしてこんなにネリウス様のことばかり考えているの……?
気がつくといつもネリウスのことを思い出している。それはバラをもらった時とは違う感情だ。
憧れだろうか。尊敬だろうか。それとも────。
エルは一瞬思い浮かんだ感情を、振り払うようにダンスホールから出た。
そんなことを考えてはいけない。自分は「ベッカー侯爵」の好意でここに住まわせてもらっているただの居候だ。自分なんか釣り合わない。ダンスが踊れるようになったくらいで調子に乗ってはいけない。
だけどそう思えば思うほど、自分の存在が悲しくなった。
ネリウスはまるで届かない楽園のような存在。自分は、そこを夢見るだけの旅人なのだ。