無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 どれくらいの時間踊っただろう。

 エルは思い出せるまで何度でも繰り返し床を踏んだ。

 けれどその人が思い出せない。手を伸ばす先に誰かの指が、掌がある。こんなに幸せなのに、こんなに温かいのに、目を開けると消えてしまう。広いダンスホールに独りぼっちだった。

 いつの間にか夜になっていたらしい。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。ダンスホールの中は月明かりが差し込んでいて、それがなんだか余計に寂しくさせた。

 エルはふと我に帰った。自分は何をやっているのだろう。踊りすぎたせいで足も痛い。こんなに踊ったのに、何も思い出せない。目の奥にある幸せな記憶は、現実にはなかった。

 自分は何を愛していたのだろう。夢の中でその人がこの手に触れる瞬間が幸せなのに、どうしてそのことを忘れてしまっているのか。

 エルはもう一度目を瞑って、ステップを踏んだ。夢の中の人物がそこにいるように手を差し出して、身を任せた。

 優しい手が指に絡む。その人物との距離が近付くと、早い鼓動が聞こえてくる。

 こんなにも穏やかな時間なのに、心臓はやけにうるさい。

 その人物が触れる度に、引き寄せられる度に胸が苦しくなった。

 ────え?

 ふと、手のひらに熱が宿った。この手を暖かい感触が包んだ。優しい指先がそっとエルの指を絡め取った。

 エルは驚いたが、夢の続きのように思えて身を任せた。

 腰にそっと何かが触れて、ぐっと引き寄せられる。先ほどまでの足取りが嘘のようにスムーズに、軽快に動く。

 まるで記憶の人物と同じように。いや、それ以上だ。

 掌から脈打つ鼓動が伝わってくる。それは記憶の人物と同じだ。

 あなたは誰────?

 目を開くと、そこにはネリウスがいた。

 エルは驚いた。綺麗な蒼い瞳がまっすぐに自分を見つめて動けなくなった。ネリウスは何かを待つようにエルを見つめていた。

 ────私はこの瞳を見たことがある。どこで………?

 頭に中にいくつかの記憶がフラッシュバックした。その瞳はいつも自分を見つめていた。

 そうだ。ここでも、自分はその青い瞳をずっと見つめていた。

「ダンスは……一人じゃ踊れないだろう?」

 ネリウスはもう一度エルの手を取って、身体を引き寄せた。

 懐かしい感覚だ。まるで羽が生えたみたいに体が軽くなって、ネリウスが踏むステップに勝手に足が動き始めた。

 ────私、この人と踊ったことがある。ここで、ずっと……。

 ネリウスはエルから目をそらすことなく見つめ続けた。まるでその目の中にある記憶を呼び覚ますように。

「エル……俺を思い出してくれ」

 ネリウスの腕がエルをそっと抱きしめた。あまりにも優しいその抱擁に、エルは胸が苦しくなった。

「いつもお前のことを思っていたのに……傷付くのが怖くて、お前に伝えられなかった」
 
 聞いていて切なくなるような切羽詰まった声だった。

「本当はずっと思ってた……お前のことがなにより大事で、いつも伝えたかった。けど、言えなかったんだ。お前を傷付けるような気がして怖かった」

 ネリウスはゆっくりと身体を離すと、エルの瞳を見た。

「……俺はお前に愛されたい。エル……こんな俺でも、そばにいてくれるか……?」

 エルの目から雫が零れ落ちた。

 こんなにもハッキリと思い出せるのに、今のいままでずっと忘れていたなんて不思議だ。

 最も愛する記憶────そう言われても差し支えないほど、ここでネリウスと踊った記憶は大切なものだった。夢のような時間だった。だから壊されたくなくて、距離を置いた。

 私も同じですと、言いたかった。愛していると。

 何度も口を開いて、声を発そうとした。でも、声は出ない。もどかしくて苦しかった。

「お前の言いたいことを当てようか?」

 ネリウスは優しく笑った。いつか見た、穏やかな笑みだった。

「俺のこと……愛してる、だろう……?」

 エルは泣きながら、笑って頷いた。その瞳には、しっかりと彼が映っていた。ずっと想い続けてきた大切な人が。
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