無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 馬の嗎が聞こえるのは、いつも深夜を過ぎてからだ。時計を見ると、三時を指していた。

 ────またこんなに遅くまで。

 ミラルカに言われてベッドに横になってはいたが、エルは心配で目を瞑ったままいつも待っていた。

 毎日のようにこんなに遅くまで仕事して、朝は日が昇るのと同じくらいに出て行ってしまう。倒れたりしないか心配で心配で堪らなかった。

 ネリウスは大丈夫だと言うが、そんなわけがない。弱音を吐いたりするような人ではないから、本当に仕事が終わるまで延々と働きかねなかった。あまりにも心配で手紙を書いたが、休んでくれるだろうか。

 翌朝、部屋に紅茶を運びに来たミラルカが手紙を差し出した。ネリウスからの手紙だ。

 エルはすぐに受け取って、封を開けた。

『必ず会いに行くから、夜はちゃんと休め』。短くそう書かれていた。

 もしかして、ネリウスは起きているのを知っているのだろうか。一瞬そう思ったが、そんなわけはない。きっとミラルカが伝えたのだろう。

「旦那様、エル様のお手紙を嬉しそうにご覧になっていましたよ。手紙を渡したらすぐに読んで、すぐ返事を書いてらっしゃいました」

 こんなに早く返事がくることは珍しい。いや、仕事で忙しいから他に書く時間がなかったのかもしれない。だとしても、この手紙はとても嬉しかった。

 会えなくなってから、ネリウスはファビオを通じて花を届けてくれる。きっと寂しい思いをさせていると思っているのだろう。

 確かに会えないのは寂しい。だけど気持ちは通じ合っていると信じていたから辛くはなかった。

 それよりも、いつまでこんな時間が続くのかと考える方が辛かった。

 ネリウスからは何も聞いていない。ミラルカも心配かけまいと話さないが、察するにこの状況はアレクシアと何か関わりがあるのだろう。

 二人の言葉から推測すると、ネリウスはアレクシアとの縁談を断った。それが今の状態に繋がっているのだろうか。

 公爵家からの縁談を断ればどうなるか────エルにも想像ができた。

 ネリウスはその対応に追われているから忙しいのだろうか。縁談を断らなければこんな事にはならなかったのだろうか。嫌な想像しか浮かばない。

 あれから図書室でフォーミュラー公爵について調べた。古い家だから、調べれば色々な情報が出てきた。

 前ベッカー侯爵はネリウスとアレクシアとの婚姻を望んでいたのだろう。フォーミュラー公爵も、悪い相手ではないと思ったからこそ許嫁の話を受けた。

 しかし前ベッカー侯爵は亡くなった。そこで話は立ち消えになりかけた。

 それでも、公爵がネリウスを娘婿として望んでいたのは事実だ。だからパーティーの時、自分のことを紹介できなかった。

 もしフォーミュラー公爵から圧力をかけられているのだとしたらそれは相当なものに違いない。

 ────もし、そうなのだとしたら……この先どうなるの? 侯爵家は? ネリウス様は? ミラルカ達は……。

 もしこの状態が続けばネリウスも、侯爵家が守る領土もただでは済まない。ネリウスが縁談を断らなければ家を大きくすることが出来るだろうし、仕事はうまくいっていたに違いない。

 自分がいなければ、ネリウスはこんな状況には陥らなかったのだろうか。自分がいなければ、ネリウスはきっと縁談を受けたかもしれない。最善の選択を選んだだろう。

 ネリウスはとても優しい。だからこそ、自分を捨てたりしない。優しいから自分を放り出したり出来ない。

 けれど、そのせいで自分自身を窮地に追い込んでいるのなら────。



 それから何日経っても、ネリウスの帰りは遅いままだった。

 相変わらず顔も見れない生活を送っていたが、ネリウスが少しやつれたとミラルカが話していた。あのミラルカが悪態をつかないということは、相当厳しい状況なのだろう。

「心配しないでエル様。旦那様も無茶はしますけど、ご自分のことはちゃんと分かっている方です。本当に疲れた時はお休みになられますよ」

 その「本当に疲れた時」に取り返しがつけばいいが、もしネリウスが病気になったりするようなことがあったら────そう考えるとエルは不安で仕方がなかった。

 必ず会いに行くからと、あの手紙を見てからもう一ヶ月は経っていた。

 ネリウスは同じ生活を続けている。屋敷内にいてもすれ違うこともなくなっていた。ネリウスの存在を知らせるのは、唯一夜の馬の(いななき)だけだ。

 寂しくなんてない。ただ、ネリウスのことを思うと胸が張り裂けそうだった。ネリウスが自分のために無理をしているというのに、見ていることしかできない。

 どうして貴族じゃなかったのだろう。どうして、ネリウスに釣り合う家柄じゃなかったのだろう。今更そんなことばかり考えた。顔も覚えていない両親が今どうしているか、そんなことすら分からない自分。

 気持ちは通じているが、自分とネリウスは天と地ほど離れた存在だ。

 それなのに、ネリウスは自分を愛しそばに置いてくれた。こんな分不相応な生活までさせてもらって、有り余るほどの愛情を注いでくれている。

 自分がやるべきことは────。
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