無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
 ようやく仕事が落ち着いてきて、ネリウスはホッとした。

 一時はどうなることかと思ったが、神様には見放されていなかったらしい。

 今日はいつもより早く帰宅した。早いと言っても夜の八時を過ぎだが、それでもいつもよりはかなり早い方だった。

 屋敷に着くなりまっすぐにエルの部屋に向かう。遅い時間だから明日にすればいいとも思ったが、仕事が完全に手を離れたわけではない。明日もやることが残っていたから、その日のうちに会いに行こうと決めた。

 恐らくエルは起きている。そしてその読み通り、エルは起きて待っていた。

 窓辺で本を読んでいたエルはネリウスの姿が見えるとすぐに立ち上がった。久しぶりに見る顔は変わらないが、心配していたのだろう。駆け寄るなりぎゅっと手のひらを握りしめた。

「俺がいなくて寂しかったか?」

 エルはブンブンと首を振った。

「じゃあ、俺がいなくてもよかったのか?」

 勿論、そんな意味ではないのだろう。エルの困った顔を見るとなぜだか安心できた。

 ソファに腰掛けると、後を追うようにエルもその隣に腰掛ける。エルの部屋は以前と変わらない。テーブルの上に積まれた本も、筆談用の紙とペンも、そのままだ。

「やっと時間が出来たんだ。遅くなって悪かった。眠くないならミラルカに何か持って来させる」

 ネリウスはエルが頷いたのを確認して呼び鈴を鳴らした。少し経ってからミラルカが来て、二人を見て驚いた。

「まぁ旦那様、帰って来たと思ったらエル様のお部屋にいらしたんですね」

「エルになにか持って来てやれ」

「かしこまりました。暖炉の火も入れましょう。今日は冷えてますから……」

 ミラルカはテキパキと暖炉の火をつけて、部屋から出て行った。それからすぐに二人分の飲み物を持って部屋に帰って来た。

 もう冬が近いからか外は冷え始めている。部屋の気温も以前より寒く感じた。

 エルは寒そうな格好をしているが平気なのだろうか。薄手のネグリジェにストールを羽織っただけで、この寒さに耐えられるとは思えなかった。

「寒くないのか? なんならもっと厚手のものを用意させるが……」

 エルは首を横に振った。どうやら本当に寒くなさそうだ。心配だが、取り敢えず暖炉に火を入れたから大丈夫だろう。

「絵のことだが……疲れてないか。慣れないことで大変だったろう」

 エルはちっとも、とでも言うように首を横に振った。その仕草がまるで動物のように見える。エルの癖だ。心配をかけさせまいと気を遣っているのだろう。そんなエルを見ると余計にいじらしく感じた。

「お前をそばに置いておきたかったんだ」

 ネリウスはそっと手を伸ばし、エルの肩を掴んでその身体を引き寄せた。その額にゆっくりと口付けを落とす。あとになってなんだか照れ臭くて顔を背けた。

 すると、お返しにとばかりにエルもネリウスの額にキスを落とした。ネリウスは笑ってまたエルの頬にキスをした。

 軽いスキンシップのつもりだったのに、触れているうちにいつの間にか本気の口付けになっていた。とうとうその桜色の柔らかい花唇にたどり着くと、昂ぶった熱を共有するようにそこに触れた。

 長く離れていた時を隙間を埋めるように、お互いの唇を貪った。夢中になっているうちに気が付くとエルの身体を押し倒していた。

 目の前には目を潤ませた息の荒いエルがいる。まるで花が虫を吸い寄せるように、エルから目が離せない。思わずその光景に生唾を飲んだ。

 ────抱いてしまいたい。

 一瞬そんな考えが頭をよぎる。だけどすぐに我にかえった。さすがにそれは駄目だ。そんなことをしたら昔のことを思い出して怖がるかもしれない。

 躊躇していると、エルは触れるのを躊躇っていた指先にそっと手を添えて自分の唇に触れさせた。

「……いいのか。俺はお前が喋れないのをいいことに勝手に勘違いするかもしれないぞ」

 確かめるように問いかける。

 ネリウスを求めるような視線を向け、エルはぎこちないキスを与えた。そのキスはイエスだろうか。
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