無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
まるで夢のような時間だった。
ネリウスが自分を抱いてくれた。愛してると何度も囁いてくれた。その温度が、指が、何もかもが愛おしくて何度も求めた。本当に幸せな時間だった。
彼は起き上がってベッドの上に脱ぎ捨てられた服から何か探し出した。小さな小箱だ。
「こんなふうに渡すつもりじゃなかったんだが……」
そう言うネリウスはなんだ気不味そうだ。
やがてその中から取り出したそれをエルの薬指にそっとはめた。バラの細工が施された綺麗な指輪だった。
「エル……俺の妻として、俺のそばにいてくれるか……?」
まるで時を止めたみたいに息をすることを忘れた。夢でもみているみたいだと思った。夢じゃないなら、これはなんだろう。真剣に見つめるネリウスを見て、それが嘘じゃないのだと気付いた。
けれどまだ信じられないでいる自分に、ネリウスはそっと口付けた。
幻じゃない。何もかもが本当だ。こんな幻はない。
声の出ないエルは泣くしか出来なかった。けれどそれは幸いだった。指に収まる指輪を見つめながら、心の中で何度も呟いた。
────ネリウス様、愛してる。一度も言えなかったけど。あなたのこと心から愛してた。
自分を拾ってくれたこと。優しくしてくれたこと。気遣ってくれたこと。バラをくれたこと。抱いてくれたこと。愛してくれたこと。何もかも忘れないだろう。
けれど駄目なのだ。ネリウスとはいられない。
とても分不相応な幸せだった。こんな幸福なことはなかった。最後に抱いてもらえて、こんなにも愛されて、こんなにも幸せで……。
自分を見つめる綺麗な蒼色の瞳を、いつまでもこの目に焼き付けていたい。愛しそうに触れる手を、ずっと握りしめていたい。
『ネリウス様……愛してる』
声には出ない。けれどそう口を開いた。ネリウスは分かっているのだろう。嬉しそうにはにかんだ。
あと一つ願いが叶うなら、この声を取り戻したかった。ネリウスの名前を呼びたかった。
本当はすごく寂しい。ネリウスがいない生活なんて耐えられそうにもない。
だけど彼を思うなら、自分は逃げてみせる。
どこに行こうとここで過ごしたことは決して忘れないだろう。彼が愛してくれたこと。彼が触れてくれたこと。ネリウスの全てを、瞳を、必ず覚えておくだろう。
たとえ目の前に彼がいなくても生きていけるように。強くなれるように。
────あなたを思い出せば、私は怖くない。
隣から寝息が聞こえる中、エルは静かに起き上がった。
穏やかな表情で眠っているネリウスにキスしたい衝動を抑え、指輪を置いて、そっと部屋を抜け出した。気付かれないようにそっと。
後ろは一度も振り返らなかった。ネリウスがもし見ていたら、そんなことを考えるのが怖かった。
屋敷から出る道は、数年暮らした中でいくつか見つけていた。出ようと思って見つけたわけではなかったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
出口から足を出したところでふと躊躇する。
今ならばまだ、あのベッドに戻ることができる。戻って、何事もなかったかのようにあの腕に抱かれることができる。
優しい笑みがエルを頭の中で引き止めた。だけどそれはしない。
エルは一歩踏み出して、無我夢中で走った。
こんなことが前にもあった。あれは牢から抜け出したあの嵐の夜。ただ夢中で、雨の中を走っていた時のことだ。
逃げなきゃいけない。走らなければ。もう二度と、あそこに帰ってはいけない────そんな思いで走った。
あの時と似ている。だけど違うのは、自分が恐れて逃げているわけじゃないということだ。
エルは心の中で何度も謝った。指輪をくれたネリウスを裏切ったことが悔しくて、悲しかった。
ネリウスのことを誰よりも想っている。誰よりも愛している。けれど、自分のために身を削る彼をこれ以上見ていられない。
彼は優しすぎる。こんな自分のためにそこまでしなくていい。自身に釣り合う人と一緒にいるべきだ。それが、ネリウスのためであり、ベッカー侯爵家で過ごす彼らのためでもある。
自分はネリウスに愛された、その記憶さえあればいい。これ以上は何も望まない。
走りながらエルは何度も自分の指を見つめた。ネリウスが指輪をはめてくれた薬指。もうそこには指輪はないけれど、その姿はちゃんと覚えている。
そして今も、彼の声が耳に響いている。「愛してる」と────。
ネリウスが自分を抱いてくれた。愛してると何度も囁いてくれた。その温度が、指が、何もかもが愛おしくて何度も求めた。本当に幸せな時間だった。
彼は起き上がってベッドの上に脱ぎ捨てられた服から何か探し出した。小さな小箱だ。
「こんなふうに渡すつもりじゃなかったんだが……」
そう言うネリウスはなんだ気不味そうだ。
やがてその中から取り出したそれをエルの薬指にそっとはめた。バラの細工が施された綺麗な指輪だった。
「エル……俺の妻として、俺のそばにいてくれるか……?」
まるで時を止めたみたいに息をすることを忘れた。夢でもみているみたいだと思った。夢じゃないなら、これはなんだろう。真剣に見つめるネリウスを見て、それが嘘じゃないのだと気付いた。
けれどまだ信じられないでいる自分に、ネリウスはそっと口付けた。
幻じゃない。何もかもが本当だ。こんな幻はない。
声の出ないエルは泣くしか出来なかった。けれどそれは幸いだった。指に収まる指輪を見つめながら、心の中で何度も呟いた。
────ネリウス様、愛してる。一度も言えなかったけど。あなたのこと心から愛してた。
自分を拾ってくれたこと。優しくしてくれたこと。気遣ってくれたこと。バラをくれたこと。抱いてくれたこと。愛してくれたこと。何もかも忘れないだろう。
けれど駄目なのだ。ネリウスとはいられない。
とても分不相応な幸せだった。こんな幸福なことはなかった。最後に抱いてもらえて、こんなにも愛されて、こんなにも幸せで……。
自分を見つめる綺麗な蒼色の瞳を、いつまでもこの目に焼き付けていたい。愛しそうに触れる手を、ずっと握りしめていたい。
『ネリウス様……愛してる』
声には出ない。けれどそう口を開いた。ネリウスは分かっているのだろう。嬉しそうにはにかんだ。
あと一つ願いが叶うなら、この声を取り戻したかった。ネリウスの名前を呼びたかった。
本当はすごく寂しい。ネリウスがいない生活なんて耐えられそうにもない。
だけど彼を思うなら、自分は逃げてみせる。
どこに行こうとここで過ごしたことは決して忘れないだろう。彼が愛してくれたこと。彼が触れてくれたこと。ネリウスの全てを、瞳を、必ず覚えておくだろう。
たとえ目の前に彼がいなくても生きていけるように。強くなれるように。
────あなたを思い出せば、私は怖くない。
隣から寝息が聞こえる中、エルは静かに起き上がった。
穏やかな表情で眠っているネリウスにキスしたい衝動を抑え、指輪を置いて、そっと部屋を抜け出した。気付かれないようにそっと。
後ろは一度も振り返らなかった。ネリウスがもし見ていたら、そんなことを考えるのが怖かった。
屋敷から出る道は、数年暮らした中でいくつか見つけていた。出ようと思って見つけたわけではなかったが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
出口から足を出したところでふと躊躇する。
今ならばまだ、あのベッドに戻ることができる。戻って、何事もなかったかのようにあの腕に抱かれることができる。
優しい笑みがエルを頭の中で引き止めた。だけどそれはしない。
エルは一歩踏み出して、無我夢中で走った。
こんなことが前にもあった。あれは牢から抜け出したあの嵐の夜。ただ夢中で、雨の中を走っていた時のことだ。
逃げなきゃいけない。走らなければ。もう二度と、あそこに帰ってはいけない────そんな思いで走った。
あの時と似ている。だけど違うのは、自分が恐れて逃げているわけじゃないということだ。
エルは心の中で何度も謝った。指輪をくれたネリウスを裏切ったことが悔しくて、悲しかった。
ネリウスのことを誰よりも想っている。誰よりも愛している。けれど、自分のために身を削る彼をこれ以上見ていられない。
彼は優しすぎる。こんな自分のためにそこまでしなくていい。自身に釣り合う人と一緒にいるべきだ。それが、ネリウスのためであり、ベッカー侯爵家で過ごす彼らのためでもある。
自分はネリウスに愛された、その記憶さえあればいい。これ以上は何も望まない。
走りながらエルは何度も自分の指を見つめた。ネリウスが指輪をはめてくれた薬指。もうそこには指輪はないけれど、その姿はちゃんと覚えている。
そして今も、彼の声が耳に響いている。「愛してる」と────。