無口な侯爵はエメラルドの瞳に恋をする
「外に出たのか」
ミラルカは仕事から帰ってきたネリウスに今日の出来事を報告した。少女の世話を言いつかったミラルカの仕事の一つだ。
「勝手なことをして申し訳ありません」
「いや、いい。あいつの世話はお前に一任した。お前が決めろ」
「ファビオとは普通に話せました。旦那様とも話せると思いますが」
ミラルカも時期尚早だと分かっていたが、ネリウスはこの屋敷の主人だ。一度でも会わせた方がいいと思っていた。
「俺は会う気はない」
だが、ネリウスは即座に突っぱねた。
「ファビオはまだ子供だからいい。俺は大人だ。会ったらまた引き籠るぞ」
確かにそうだ。少女はまだ人を怖がっている。自分やファビオは無害そうに見えるからなんとか接触できているが、他の使用人やネリウスと会わせたらこの屋敷に来た時と同じようなことになるかもしれない。
────それにしても、旦那様がこんなに人のことを気にされるのは初めてね。
ミラルカは意外に思った。
ネリウスは仕事の時はきちんとするが、基本的に出不精で他人に興味がなく、大陸一愛想が悪いと言っても過言ではない。
両親譲りの美貌と身分のため多少喋らずとも人は近づいてくるが、それがなかったら一体どうなっていたことだろうかと常日頃から心配していた。
偶然少女が倒れていてヒュークが気を使って持ち帰っただけと思っていたが、心配をしていたのはヒュークよりもネリウスの方だった。
ネリウスがこんなに人のことを考えている。滅多とないことだった。
「どうだ。気分転換にはなったのか?」
「バラをご覧になったのは初めてのようです。随分喜んでらっしゃいました」
「……そうか」
「それと、彼女はご自分の名前をご存じないようです。そのことにはあまり触れないようにしていますが……」
恐らく、少女は名前を呼ばれるような生活をしていなかったのだろう。あの怯えようを見れば簡単に想像できた。
名前すらない。まともな扱いを受けていなかったに違いない。そんな少女に本当の名前を思い出させるなど、可哀想で出来なかった。
「ミラルカ」
「はい」
ミラルカが返事をすると、ネリウスは思案顔を浮かべ、書斎の机に置かれたメモ紙に何か書いた。
やがてそれをミラルカに手渡した。
***
天気のいい昼下がり。少女は窓から庭園を眺めていた。
庭園ではファビオがせかせかと働いていている。今日も庭園は美しい。
少しするとドアをノックする音がして、ミラルカが入ってきた。その手は何か握られている。
「これを、旦那様があなたにと」
ミラルカが差し出したのは封筒だった。中を開けると一枚の紙が入っていた。
────Emerald。
紙にはそう書かれてた。ミラルカは嬉しそうに笑っている。
「あなたに名前がないと言ったら、それを。それと、もう一つ驚くものがありますよ」
ミラルカは窓の外の庭を指差した。ちょうど、バラ園がある辺りだ。
「旦那様が、あなたにバラ園をプレゼントしたいそうよ」
少女は驚き、バラ園を二度見した。聞き間違いではないかと思った。
「あなたがバラ園を気にいったとお伝えしたらそうおっしゃったの」
そんなことがあるだろうか。外のことをほとんど知らないとはいえ、バラ園が高価なことぐらいはわかる。人に簡単にやれるようなものではないということも。
屋敷の主人、ネリウス侯爵がお金持ちだと知っていても、なにもしていない自分が突然バラ園をもらえるなんて信じられなかった。
戸惑う少女に、ミラルカはなおも告げた。
「旦那様がいいと仰ったのだからいいのですよ。エル様」
それが名前であると、今更理解した。
「エメラルドだから、エル様とお呼びさせて頂きます。よろしくお願いしますね、エル様」
────エル。それが私の名前?
名前で呼ばれたことなど今までなかった。だからか、なんだか慣れない。名前で呼ばれることも。様付けされることも。
エルは初めてネリウス侯爵に興味が湧いた。
倒れた自分を保護し、食事と部屋を与え、おまけにバラ園までくれた。
何か目的があるのではないか? そうも思ったが、ミラルカとファビオを話を聞いて、まったくの悪人には思えなかった。
ミラルカは仕事から帰ってきたネリウスに今日の出来事を報告した。少女の世話を言いつかったミラルカの仕事の一つだ。
「勝手なことをして申し訳ありません」
「いや、いい。あいつの世話はお前に一任した。お前が決めろ」
「ファビオとは普通に話せました。旦那様とも話せると思いますが」
ミラルカも時期尚早だと分かっていたが、ネリウスはこの屋敷の主人だ。一度でも会わせた方がいいと思っていた。
「俺は会う気はない」
だが、ネリウスは即座に突っぱねた。
「ファビオはまだ子供だからいい。俺は大人だ。会ったらまた引き籠るぞ」
確かにそうだ。少女はまだ人を怖がっている。自分やファビオは無害そうに見えるからなんとか接触できているが、他の使用人やネリウスと会わせたらこの屋敷に来た時と同じようなことになるかもしれない。
────それにしても、旦那様がこんなに人のことを気にされるのは初めてね。
ミラルカは意外に思った。
ネリウスは仕事の時はきちんとするが、基本的に出不精で他人に興味がなく、大陸一愛想が悪いと言っても過言ではない。
両親譲りの美貌と身分のため多少喋らずとも人は近づいてくるが、それがなかったら一体どうなっていたことだろうかと常日頃から心配していた。
偶然少女が倒れていてヒュークが気を使って持ち帰っただけと思っていたが、心配をしていたのはヒュークよりもネリウスの方だった。
ネリウスがこんなに人のことを考えている。滅多とないことだった。
「どうだ。気分転換にはなったのか?」
「バラをご覧になったのは初めてのようです。随分喜んでらっしゃいました」
「……そうか」
「それと、彼女はご自分の名前をご存じないようです。そのことにはあまり触れないようにしていますが……」
恐らく、少女は名前を呼ばれるような生活をしていなかったのだろう。あの怯えようを見れば簡単に想像できた。
名前すらない。まともな扱いを受けていなかったに違いない。そんな少女に本当の名前を思い出させるなど、可哀想で出来なかった。
「ミラルカ」
「はい」
ミラルカが返事をすると、ネリウスは思案顔を浮かべ、書斎の机に置かれたメモ紙に何か書いた。
やがてそれをミラルカに手渡した。
***
天気のいい昼下がり。少女は窓から庭園を眺めていた。
庭園ではファビオがせかせかと働いていている。今日も庭園は美しい。
少しするとドアをノックする音がして、ミラルカが入ってきた。その手は何か握られている。
「これを、旦那様があなたにと」
ミラルカが差し出したのは封筒だった。中を開けると一枚の紙が入っていた。
────Emerald。
紙にはそう書かれてた。ミラルカは嬉しそうに笑っている。
「あなたに名前がないと言ったら、それを。それと、もう一つ驚くものがありますよ」
ミラルカは窓の外の庭を指差した。ちょうど、バラ園がある辺りだ。
「旦那様が、あなたにバラ園をプレゼントしたいそうよ」
少女は驚き、バラ園を二度見した。聞き間違いではないかと思った。
「あなたがバラ園を気にいったとお伝えしたらそうおっしゃったの」
そんなことがあるだろうか。外のことをほとんど知らないとはいえ、バラ園が高価なことぐらいはわかる。人に簡単にやれるようなものではないということも。
屋敷の主人、ネリウス侯爵がお金持ちだと知っていても、なにもしていない自分が突然バラ園をもらえるなんて信じられなかった。
戸惑う少女に、ミラルカはなおも告げた。
「旦那様がいいと仰ったのだからいいのですよ。エル様」
それが名前であると、今更理解した。
「エメラルドだから、エル様とお呼びさせて頂きます。よろしくお願いしますね、エル様」
────エル。それが私の名前?
名前で呼ばれたことなど今までなかった。だからか、なんだか慣れない。名前で呼ばれることも。様付けされることも。
エルは初めてネリウス侯爵に興味が湧いた。
倒れた自分を保護し、食事と部屋を与え、おまけにバラ園までくれた。
何か目的があるのではないか? そうも思ったが、ミラルカとファビオを話を聞いて、まったくの悪人には思えなかった。