Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
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彼女が選んだのはハノンだった。あの、一番から六十番まで淡々とつづく呪詛のような練習曲集を、玄関のグランドピアノの譜面台に乗せて、最初から最後まで無心になって弾きつづけている。
ネメがウォーミングアップがてらハノンを弾くのは見たことがあったが、こうして最初から最後まで淡々と指示通りに弾いていくストイックな姿を見たのは初めてである。
それだけ心を無にしたくなったのだろう。俺がスツールに腰掛けて彼女の演奏を凝視していても、彼女は自分のピアノに夢中で気づかない。
――大勢の人前でピアノを弾くのが怖くなった、と彼女は言っていた。
須磨寺と軽井沢で過ごした日々を通じて、ピアノをふたたび楽しむことはできるようになったというが、コンサートホールの舞台でもう一度ピアノを演奏できるかといえば、それはわからない、という。俺と結婚したら、パーティーの席やちょっとしたもてなしでピアノを演奏することもあるかもしれない。そのとき、俺は彼女を支えることができるだろうか。
それでも――詩みたいに自信満々で勘違いも甚だしい演奏をすることはないだろう。