Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
ハノン六十番まで一時間足らずで弾ききった彼女は、はぁはぁと喘ぎながら次の練習曲集の譜面を取り出し、指を動かしはじめる。須磨寺がすきだったというショパンだ。
ピアノの詩人、と呼ばれたショパンの作曲はロマン派というだけあって幻想的なものから情熱的なものまで多種多様だが、彼が死の間際に「別れの曲」をネメに弾かせたというはなしを添田から耳にしただけで、俺は嫉妬してしまった。法的にも肉体的にも繋がりはなかったのに、須磨寺とネメは三年の間に夫婦として心を寄せ合っていたことを思い知らされたみたいだったから……
――だけど、いま彼女が想ってくれているのは俺だ。そうだと信じたい。
ネメがいま弾いているのはたぶん第八番だろう、ヘ長調のとてつもなく指を動かす練習曲である。瞳をとじれば美しい旋律が清らかな奔流となって体中に染み渡っていく。
「……アキフミは、ショパンはそんなにすきじゃなかったっけ」
「ネメが弾いてくれるなら、なんでもすきだよ」
俺が黙り込んでいたからか、第八番まで弾きおえた彼女が心配そうに顔をこちらへ向ける。
まるで軽い運動をしてきた後のように、彼女の顔は赤らみ、額はうっすら汗ばんでいる。
その艶っぽい表情を見るだけで、俺の愚かな下半身は反応してしまう。