Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

 この土地で、元ピアニストだった鏑木音鳴を知る人間は、会話を終えて窓をしめ、部屋のなかから無邪気に手を振っている夫、須磨寺喜一(きいち)しかいない。

 ここでのわたしは須磨寺音鳴、二十六歳。
 北軽井沢の別荘地“星月夜のまほろば”を統べる大地主で別荘管理総責任者の須磨寺喜一の妻だ。御年七十二歳となる夫はネメと言えなくて、わたしのことを当初からねね、と呼んでいる。
 結婚三年目。ふたり寄り添うように穏やかな日々を送っている孫ほど年齢の離れた夫婦だが、これには深い深い理由がある。

 わたしには守りたいものがあったのだ。


   * * *


 ポロンポロンと玄関ホールのグランドピアノから奏でられる旋律に耳をかたむけるわたしに、夫が苦笑する。

「調律を依頼したのはいつだったっけな?」
「昨年の五月です。そろそろ定期調律の予約を入れた方が良さそうですね」
「できれば今月中に手配してほしい。シーズンがはじまったら、ここも利用者で賑やかになるからな」
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