Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
夫には持病がある。緩やかに進行していく病状は他者の目から見ると代わり映えするものではないが、三年近く一緒に暮らしているわたしは、彼の生命の灯火が弱まってきていることに気づきながら、知らないふりをしていた。
けれど、そんなわたしの態度も夫には筒抜けだったのだろう。いつからか彼は「自分はもう長くない」と口にするようになっていた。
「旦那様がいままで守ってきた土地です。売り飛ばすなんて……そのようなこと、できません! わたしは旦那様がいなくなってからも、ずっとここで別荘管理の仕事をしながらしずかに余生を過ごすつもりです」
「……余生と呼ぶには早すぎるぞ、ねね子や」
きっぱりと言い切るわたしを面白そうに、けれどもほんのすこしだけ気の毒そうに見つめた夫は、結局それ以上は何も言わないで、ふたたび鍵盤に手をかけるのだった。
曲は、ラヴェル――亡き王女のためのパヴァーヌ。
人前でピアノを弾けなくなったわたしを鎮魂するかのように、夫はときどきこの曲を選ぶ。
かつて、世界的ピアニスト鏑木壮太の師でもあった夫の指捌きは老齢にもかかわらず豪胆で、雄大だ。病気のことさえなければ、いまもなお現役で舞台に立ちつづけていたはずだ。
人前でピアノを弾けなくなったわたしなんかと違って……