Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
 歌曲の王と呼ばれるロマン派音楽の巨匠、フランツ・ペーター・シューベルトは、わたしのピアノ人生に欠かせない作曲家になっていた。初恋のひとと奏でたグラン・デュオ、音大在学時にデビューした際に弾いたセレナーデ……数多あるピアノソナタに歌曲の数々を舞台で弾いた。そしてこの子守唄も。

「ええ……だってわたし、シューベルトの妻になるつもりでいたんですもの」

 自嘲するように応えれば、夫は困ったような表情を浮かべている。
 あれから九年。初恋の想い出は、自分の胸に眠らせたままだ。

「シューベルトは、生涯結婚なぞしてないだろうに」

 ぽつり、と呟く彼の声をかき消すように、わたしはピアノの演奏をつづける。
 あのとき、お金がないからと学校をやめて以来、そのままになってしまった彼は今、どこで何をしているのだろう。いつか逢いに行くと誓ってくれた彼と顔を合わせる資格など、もう存在しないけれど。

 ――わたしの恋心は、眠ったままでいいんだ。

 シューベルトの子守唄を奏でているうちに、夫は眠ってしまった。
 もうじき死ぬだろうと言いながら、一年くらい生きつづけている。

 今年の春も、一緒に辛夷の花を見に行けたらいいな、と思いながら、わたしはピアノを弾く手を止めた。
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