Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
「……そうだったっけな」
言葉を濁しながら、寝台からゆっくりと立ち上がった夫はわたしの隣に座る。
父親が遺してくれたアップライトピアノは、すこし音が飛んでいる。
「調律は?」
「添田が手配してくれたよ。今回はわしは病院の日だから立ち会えないだろうが……前回も来てくれた紫葉って男の調律師だ。若いが、とても腕がいい」
ポンポーン、と白鍵に指を置いた夫は、わたしの出方を確認するように即興でメロディラインを奏ではじめる。ジャズセッションみたいに、一台のピアノで語り合うのが、さいきんのわたしたちの夫婦の戯れ方だ。
「若くていい男がいたら、わしのことなどとっとと見限っていいんだぞ」
「看取ってから考えます」
「それでいい。ただ、遺産相続は添田に任せろ。貴女の存在はヒミツにしているからな」
「まあ」
「若い後妻がいるなんて知られてみろ。遺産目当てだと騒ぎ立てられて無一文で追い出されるに決まってる。せっかくわしが死にそうな貴女を拾ったんだ。この土地も、ピアノも……にしか渡さないから……」
売っぱらって構わないと言いながら、わたしにしか渡さないなんて矛盾したことを言って、夫は指を黒鍵へ滑らせる。
ポロロン、と奏でられた即興曲は、どこかもの悲し気なイ短調へと移り変わっていた。