Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

 自分だって人前でピアノを弾くことができない身の上なのに、そんなことを思ってしまった。
 ただ、ピアノの調律がはじまったのは、音だけで判断できる。
 ポーン。と軽やかな音が玄関先から響き出す。
 グランドピアノの調律がはじまったのだ。

 弦楽器にあたるピアノの調律はアクションの整調をはじめハンマーの整音など、複雑で精度を要する作業が多い。ピアニストのクセみたいなものもあるから、同じ調律師の手によって合わせてもらわないとイマイチになってしまうこともある。
 夫や添田が信頼しているという紫葉は、昨年もその前もピアノの調律を担当しているのだという。昨年は家政婦と一緒に買い出しにでかけている間に調律が終わってしまったらしく、帰っていく黒い車しか見ることが叶わなかった。その前の年はまだ、わたしが軽井沢にいなかった。

「……あれ、この曲」

 鍵盤を叩く柔らかな音に、耳を傾ける。ベートーヴェンの第一番第四楽章。暗譜しているのだろうか。だとしたら、たしかに只者ではない。

 玄関のグランドピアノの調律が終わったのだろう、ピアノの音が消える。
 次は、大広間のアップライト。こっそり後ろ姿を覗きに行こうかな。
 調律師の作業を邪魔しないように、こっそり。
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