Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
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四月下旬。軽井沢の本格的な春を告げる辛夷の花が、あちこちで見られるようになった。
一緒に花を見に行こうと約束した夫だったが、その約束は叶わなかった。
「――旦那様?」
ふだんならわたしよりも早く起きて、寝室のピアノを弾いている夫がまだ眠っている。珍しいこともあるのだなと、隣の寝台から起き上がったわたしが、夜着姿のまま、ピアノの椅子に座る。
ピアニストをやめてから、毎日のピアノ練習の頻度もがくんと減った。一日八時間ぶっ通しで弾けていた当時の自分と比べたら、毎日ほんの数時間、誰に聴かせるわけでもなくたどたどしく指を動かしているだけの怠惰な様子はもはやプロとは呼べない。けれど、もう二度と弾けないと絶望したあのときを思うと、音を鳴らす楽しみを大自然のなかで味わうことができるようになったいまの自分は嫌いじゃない。
そんなことを考えながら無意識に指を走らせる。ショパンの24のプレリュード前奏曲集のなかでも胃腸薬のコマーシャルで有名になったイ長調に、しっとりした気分になれる雨だれ、それから……
「奥様、旦那様は起きていらっしゃいますか」