Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
その後、無事にピアノ調律師の資格を習得した俺は先輩調律師の仕事を手伝うようになる。調律師一筋で活動するのは難しい現状を見て、渋々実家の不動産業の手伝いもはじめた。自分と同年代の社会人の平均給与と比べると、はるかに高い給料を稼げるようになったのは皮肉な話だ。
俺が父親に任されたのは義姉が代表取締役になっていた紫葉不動産の子会社である紫葉リゾートの補佐だった。当時、彼女が力を入れていたのは軽井沢周辺の宿泊施設……裏軽井沢と呼ばれる群馬県嬬恋村のホテルを買い取り、内装を一新したうえでオープンに向けて動いていた。義姉の命令で俺は現地を駆け回り、さまざまな雑用を請け負った。新鮮なキャベツをはじめとした野菜や果物、牛肉などの食材を手配した際に知り合った地元のシェフが、俺がピアノ調律師の資格を持っているという話をきいて、面白おかしく提案してきたのだ。軽井沢の別荘地には調律が必要なピアノが山のように眠っている、と。
たしか、ネメが音大を卒業したばかりの春のことだった。卒業記念に海外で行った父と娘のコンサートも大盛況だったという。俺は仕事で忙しくて彼女の動向を追いかけることもできずにいたが、調律した先々で彼女の噂を耳にしていたから、それほど不安に思っていなかったのだ。