Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―

調律師になったシューベルト《3》




 公の場から姿を消したピアニストを気にかける物好きは、そうそういないのだろう。調律の現場でも、彼女の話題は事故から半年もしないうちにフェードアウトしてしまった。俺だけがその場に取り残されていた。
 彼女はどこへ消えてしまったのだろう。傍にいてあげることができなかった自分がもどかしい。
 風の便りで彼女の実家が親戚のものになったとか、彼女はピアノだけを持って親戚と絶縁したとか、ひどいものではどこかのパトロンになって異国に行ってしまったのでは、という憶測に近いものもあった。

 ネメの消息は気がかりだったが、いまの俺は探しに行くだけの地位も財力も築けていない。はやる心を押し殺して、調律師と不動産業という二足の草鞋生活を無為に送りつづけていた。気が狂いそうになったら、軽井沢や嬬恋の自然にふれて深呼吸しつつ。

 二度目に須磨寺の屋敷へ調律に訪れたのも、辛夷の真っ白な花が山並みを彩りはじめた四月下旬のことだった。このときも執事の添田が俺の仕事を見ていたが、前回とすこし事情が異なった。主人が三台目のピアノを寝室に置いたのだという。

 そのピアノの調律を行うために寝室に入った俺は、サイドボードに飾られた真新しい写真を見つけてしまった。
 真っ白なウェディングドレスを着て、恥ずかしそうに俯いている、ネメの姿、を……
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