Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
「もういちど、シューベルトのセレナーデを、お願いできますか……調律師さん」
そして俺は確信する。
彼女はアキフミのことを忘れたわけではないことを。
年老いてもうじき死ぬ夫の傍で、俺が彼女のために弾いたセレナーデは、たいそう情熱的だったらしい。瞳を潤ませて顔を背ける彼女は、二度と俺の顔を見ようとしなかった。
帰りに屋敷から車を出してくれた添田は俺が紫葉リゾートの社長の椅子を義姉から奪ったことを知って理解したのだろう。主が死んだら、土地とピアノもろとも俺の会社に売っても構わないと言い出した。その際、ひとりぼっちになる彼女のこともお願いしたい、と。
「奥様は軽井沢に来て、ふたたびピアノを弾けるようになったとおっしゃっております。主人を看取った後は自由だと言われておりますが、彼女はこの土地の別荘管理人として隠居し続けたいと」
「なんてことだ」
俺よりも素晴らしい演奏ができる彼女が、ピアニストの道を諦めて、隠居しつづけるなんて。
世界を驚かせる音を鳴らしつづけるのではなかったのか。
軽井沢の山奥にこもって、須磨寺のためだけにピアノを弾いていた彼女に苛立ちを覚える。
正直、裏切られたと思った。
調律師仲間たちが噂した「どこかのパトロンになって」という言葉が脳裏をよぎる。