Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
chapter,2
シューベルトと初夏の愛人《1》
夫、須磨寺喜一が亡くなったのはその日のお昼前だった。明け方に会話をして、寝室でピアノを弾きつづけたわたしは彼の意識がなくなっていることにも気づかずにいた。
昼ごはんをどうするかと部屋に訪れた添田が、夫の異変にまず気づいた。医師と牧師を部屋に招き、危篤状態の夫の消えゆく呼吸を確認し、聖餐式が執り行われる。
聖書の一説が読み上げられ、永遠の安息を祈る言葉が、臨終の場に響く……
ひんやりとした寝台のシーツと、死後硬直のはじまった身体を前に、わたしはピアノ曲を捧げた。今日はショパンの気分……そのとおりだ。
長調でありながら悲しい音色を奏でる、世界で一番美しいといわれているエチュード。
――別れの曲。
ばたつく周囲をよそに、わたしは必死になってピアノを弾きつづけた。
感情を露わにして、鬼気迫る表情でいまにも泣きそうなわたしのピアノ。
生きている音色とは、こういうことなのだなと、今になって痛感した。
彼のように軽井沢の土地を守りながら、ピアノを愛した人生を、わたしは引き継げるだろうか。
問いかけるように、ショパンの別れの曲を、奏でつづけた。それくらいしか、いまの自分にできることはなかったから。
最後の最後まで「愛している」とは誓わなかったし言わなかった、年老いた夫に向けて。