Grand Duo * グラン・デュオ ―シューベルトは初恋花嫁を諦めない―
「……それがね、式そのものはしてないのよ」
「はあっ?」
「添田さんから聞いてない? わたしがしたのはウェディングドレスを着せられて教会で写真を撮ったことと、婚姻届にサインしたことだけ」
「結局サインしたんだろ?」
「あ、あのときはパパ……父親のピアノを守りたくて、自分がどうなろうが構わなかったのよ」
「お前なぁ……自分を蔑ろにするなよ」
「わたしを愛人にするなんて言うひとに言われたくないわ」
ぷい、と顔を背ければ「愛人になるって言ったのはお前だろ」と、弱々しい反発の声。ピアノで大胆に愛を囁くくせに、こういうときのアキフミは迷子の子どもみたいで、自分が悪者になってしまったかのような気にさせられてしまう。
「拗ねないで、ご主人様」
「……拗ねてない」
ぽん、とわたしのあたまを軽く撫でてから、彼はピアノの方へ歩いていく。アキフミもまた、社長業務と調律師の仕事の傍ら、毎日欠かさずピアノの練習をつづけている。一緒に暮らしだしてからはわたしよりもピアノを弾く時間が長いかもしれない。
それだけ彼の指捌きは鮮やかで、的確で、うつくしかった。