雨上がりの空のように
「ねぇ、一緒に帰ろうよ」
あれは、小学四年生の七月、梅雨が明けた頃の事だったと思う。私は遠くの町から引っ越して来たばかりで、まだ友達は少なく、集団下校以外は登下校も一人で帰る事が多かった。
そんな一人で帰る私に声を掛けてくれた同じクラスの男子生徒がいた。彼はとても元気で明るくクラスでも中心的な男子だった。
名前は、康太君。
通学路途中にある公園入口に張ってあった鎖にバランスを取りながら器用に座っていた。私は転校してきてから康太君とお話しをした事が一度もなかった。いや、確かその頃の私はとても内気で、康太君どころかクラスの男子生徒とすらほとんど話した事がなかった。あるとすれば隣の席の亮輔君ぐらいだと思う。
私が何も答えずにおどおどとしている姿を見た康太くんは、ぴょんと鎖から飛び降りて私に近づくと手を差し出した。
「行こう」
そう言ってにかっと笑った顔がとても眩しくて、小さい声でうんと答えた私の手を優しく握りゆっくりと私の歩調に合わせ歩いてくれたのを今でも憶えている。
まだ、あの頃の私は男の子から手を握られることに対して、恥ずかしさなどもなかったのだろう。それから、私たちは約束していたわけでもないのに、公園の入口でお互いを待って一緒に下校する事が多くなった。
公園にランドセルを置いて遊んだり、川を覗いて鯉を探して、こっそり持ち帰ってきた給食のパンをあげたり、少し遠回りしてちょっとした冒険をしながら帰ったり、私は康太君と下校する時間を楽しんでいた。
そして、二年経った。
私と康太君は六年生になり、男子は女子を、女子は男子を異性として意識する年頃になった。それでも私たちは、いつもの公園の入口で落ち合い下校していた。
私とよくいる康太君は、時々、他の男子からからかわれる事があったけど、それにへへっと笑い答えるだけで、特に嫌がっている素振りは見られなかった。でも、私は康太君と違い、からかわれるととても恥ずかしくなり、康太君からちょっとだけ離れる事があった。
康太君はそんな私に怒ったりする事はなく、あいつらもしょうがねぇなぁと、ぽりぽりと頭をかきながら笑っていた。私はそんな康太君がとても好きだった。
そんな私たちにも転機が訪れた。小学校を卒業し、中学生になった頃から、康太君も私もそれぞれ部活に入った。康太君は元々サッカーをしており、そのままサッカー部へ入部し、私は本を読むことが好きだったので、文学部へと入部した。
それから私たちは、一緒に帰ることがほとんどなくなった。また、クラスも別々で話す機会もなく、気付けばあんなに仲の良かった私たちは疎遠となり、中学三年生になった頃には廊下ですれ違っても目も合わせなくなった。
康太君はサッカー部の主力選手として異性同性関係なく人気があった。人気があっても裏表なく人と接するのは、あの頃、私に帰ろうと声を掛けてくれた時と変わらない。
変わったのは、私たちが一緒に帰ることがなくなり、疎遠となったことだけ。
私は、部活から帰る途中に、あの公園へと寄ってみた。もう、入口に康太君が待ってくれているわけでもないのに。なぜかとても寂しくなった。なんでだろう。
夕方の誰もいない公園。公園入口の鎖は、あの頃と比べ少し錆びてきている。
その鎖に私は康太君のように座って、誰もいない公園を眺めた。ぐらぐらとして上手くバランスが取れない。そして、慣れてくると、ブランコのように少し揺らしてみた。
二人で遊んだ公園。背中を押してくれたブランコ。急にきた夕立から逃げるために入った滑り台下のトンネル。並んで座ってお喋りをした青いベンチ。その全てが懐かしく思えた。
二人で並んで歩いて、お喋りしながら笑いあって。
寂しいと言えば笑われるかな。
私と遊んだこの公園を憶えてくれてるかな。
ここで鎖に座って、帰ろうよと声を掛けてくれた事を忘れてないかな。
公園から視線を夕暮れの赤と夜の紺色が混じり合う不思議な色をした空へと移した。
色んなことを思い出していると、今でも私は、まだ康太君が好きなんだなぁと気づいた。
「美鈴?」
一人でぼやっともの想いに耽っていた私に、後ろから突然声を掛けられた。聞き覚えのある懐かしい声。今でも耳に残っていた私の名前を呼ぶあの声。
振り向くとそこには、あの頃より男らしくなっていた康太君がいた。あの頃と変わらない、にかっとした笑顔で笑っていた。
「康太君」
「久しぶりだなぁ、この公園の入口で美鈴と会うのって」
そう言うと、康太君は私の隣の鎖へ相変わらず良いバランス感覚で難なく座り、そして、私と同じように空を見上げた。
「俺さ、美鈴と帰らなくなってから、ずっと一人で帰ってたんだ」
「一緒に美鈴と帰るのが当たり前になってたから、一人で帰ってるとすっげぇ寂しくてさ、この公園にもしかしたら美鈴がいるんじゃないかって、待っててくれてるんじゃないかって……時々、来てたんだ」
空を見上げながら、ぽつりぽつりと喋っている康太君。そして、空から私の方へ視線を移し、とても嬉しそうな顔をして笑った言った。
「そしたら、やっとここで美鈴に会えた」
私はぎゅうっと胸が苦しくなった。苦しくて苦しくてしょうがなかったけど、それは嫌な苦しさではなかった。
「私も康太君と帰りたかった……一人で帰るのは退屈だった、寂しかったよ」
私は康太君の顔を見ることができず、俯きながらそう言うと、康太君が優しく私の頭を撫でてくれた。
そして、ぴょんと鎖から飛び降りて私の前にきて手を差し出した。
「行こう」
私はあの頃と違い、男子の手を握る事がとても恥ずかしかった。それでも、私は康太君の手を握り、うんと笑顔で答えた。
私の心は、雨上がりの空のように晴れていた。さっきまで、一人で思い出に浸って落ち込んでいた事が嘘のように。
あれは、小学四年生の七月、梅雨が明けた頃の事だったと思う。私は遠くの町から引っ越して来たばかりで、まだ友達は少なく、集団下校以外は登下校も一人で帰る事が多かった。
そんな一人で帰る私に声を掛けてくれた同じクラスの男子生徒がいた。彼はとても元気で明るくクラスでも中心的な男子だった。
名前は、康太君。
通学路途中にある公園入口に張ってあった鎖にバランスを取りながら器用に座っていた。私は転校してきてから康太君とお話しをした事が一度もなかった。いや、確かその頃の私はとても内気で、康太君どころかクラスの男子生徒とすらほとんど話した事がなかった。あるとすれば隣の席の亮輔君ぐらいだと思う。
私が何も答えずにおどおどとしている姿を見た康太くんは、ぴょんと鎖から飛び降りて私に近づくと手を差し出した。
「行こう」
そう言ってにかっと笑った顔がとても眩しくて、小さい声でうんと答えた私の手を優しく握りゆっくりと私の歩調に合わせ歩いてくれたのを今でも憶えている。
まだ、あの頃の私は男の子から手を握られることに対して、恥ずかしさなどもなかったのだろう。それから、私たちは約束していたわけでもないのに、公園の入口でお互いを待って一緒に下校する事が多くなった。
公園にランドセルを置いて遊んだり、川を覗いて鯉を探して、こっそり持ち帰ってきた給食のパンをあげたり、少し遠回りしてちょっとした冒険をしながら帰ったり、私は康太君と下校する時間を楽しんでいた。
そして、二年経った。
私と康太君は六年生になり、男子は女子を、女子は男子を異性として意識する年頃になった。それでも私たちは、いつもの公園の入口で落ち合い下校していた。
私とよくいる康太君は、時々、他の男子からからかわれる事があったけど、それにへへっと笑い答えるだけで、特に嫌がっている素振りは見られなかった。でも、私は康太君と違い、からかわれるととても恥ずかしくなり、康太君からちょっとだけ離れる事があった。
康太君はそんな私に怒ったりする事はなく、あいつらもしょうがねぇなぁと、ぽりぽりと頭をかきながら笑っていた。私はそんな康太君がとても好きだった。
そんな私たちにも転機が訪れた。小学校を卒業し、中学生になった頃から、康太君も私もそれぞれ部活に入った。康太君は元々サッカーをしており、そのままサッカー部へ入部し、私は本を読むことが好きだったので、文学部へと入部した。
それから私たちは、一緒に帰ることがほとんどなくなった。また、クラスも別々で話す機会もなく、気付けばあんなに仲の良かった私たちは疎遠となり、中学三年生になった頃には廊下ですれ違っても目も合わせなくなった。
康太君はサッカー部の主力選手として異性同性関係なく人気があった。人気があっても裏表なく人と接するのは、あの頃、私に帰ろうと声を掛けてくれた時と変わらない。
変わったのは、私たちが一緒に帰ることがなくなり、疎遠となったことだけ。
私は、部活から帰る途中に、あの公園へと寄ってみた。もう、入口に康太君が待ってくれているわけでもないのに。なぜかとても寂しくなった。なんでだろう。
夕方の誰もいない公園。公園入口の鎖は、あの頃と比べ少し錆びてきている。
その鎖に私は康太君のように座って、誰もいない公園を眺めた。ぐらぐらとして上手くバランスが取れない。そして、慣れてくると、ブランコのように少し揺らしてみた。
二人で遊んだ公園。背中を押してくれたブランコ。急にきた夕立から逃げるために入った滑り台下のトンネル。並んで座ってお喋りをした青いベンチ。その全てが懐かしく思えた。
二人で並んで歩いて、お喋りしながら笑いあって。
寂しいと言えば笑われるかな。
私と遊んだこの公園を憶えてくれてるかな。
ここで鎖に座って、帰ろうよと声を掛けてくれた事を忘れてないかな。
公園から視線を夕暮れの赤と夜の紺色が混じり合う不思議な色をした空へと移した。
色んなことを思い出していると、今でも私は、まだ康太君が好きなんだなぁと気づいた。
「美鈴?」
一人でぼやっともの想いに耽っていた私に、後ろから突然声を掛けられた。聞き覚えのある懐かしい声。今でも耳に残っていた私の名前を呼ぶあの声。
振り向くとそこには、あの頃より男らしくなっていた康太君がいた。あの頃と変わらない、にかっとした笑顔で笑っていた。
「康太君」
「久しぶりだなぁ、この公園の入口で美鈴と会うのって」
そう言うと、康太君は私の隣の鎖へ相変わらず良いバランス感覚で難なく座り、そして、私と同じように空を見上げた。
「俺さ、美鈴と帰らなくなってから、ずっと一人で帰ってたんだ」
「一緒に美鈴と帰るのが当たり前になってたから、一人で帰ってるとすっげぇ寂しくてさ、この公園にもしかしたら美鈴がいるんじゃないかって、待っててくれてるんじゃないかって……時々、来てたんだ」
空を見上げながら、ぽつりぽつりと喋っている康太君。そして、空から私の方へ視線を移し、とても嬉しそうな顔をして笑った言った。
「そしたら、やっとここで美鈴に会えた」
私はぎゅうっと胸が苦しくなった。苦しくて苦しくてしょうがなかったけど、それは嫌な苦しさではなかった。
「私も康太君と帰りたかった……一人で帰るのは退屈だった、寂しかったよ」
私は康太君の顔を見ることができず、俯きながらそう言うと、康太君が優しく私の頭を撫でてくれた。
そして、ぴょんと鎖から飛び降りて私の前にきて手を差し出した。
「行こう」
私はあの頃と違い、男子の手を握る事がとても恥ずかしかった。それでも、私は康太君の手を握り、うんと笑顔で答えた。
私の心は、雨上がりの空のように晴れていた。さっきまで、一人で思い出に浸って落ち込んでいた事が嘘のように。