春の訪れ
春は恋の季節と申しますが、果たしてそうなのでしょうか。確かに春の陽気にあてられ、頭がぽやぽやとなり、うとうとと夢の中へと誘われます。そして卒業に入学、離職に入職。別れと出会いの多い時期ですね。だから……なのでしょうか。恋の季節と言われるのは。さてさて、あなたにとってはどうですか。
私にとって春は、君の事を思い出す季節でしかありません。だからと言って寂しい季節とは思いません。淡い思い出とでも言いましょうか。今でも瞼を閉じれば君がいます。若き日の私と君。その若さ故の勢いで過ごした日々。その事に対し後悔もなければ、戻りたいという気持ちもこれっぽっちもないのです。
お互いに対照的だった二人。私は引っ込み思案で友達も少なく、いつも昼休みは一人で読書、君はムードメーカー的存在で多くの友達に囲まれていました。そんな私たちがどのように知り合ったかなんて、そんな事は遠い過去の話し故、覚えておりません。ただ、気づけば二人で過ごす日が増えたのは確かです。
頻りに話し掛け、一人で読書をしている私の邪魔をする君にいつも辟易していました。私の君への抵抗は黙って上目遣いで睨む事だけ。君はじっと私を見つめ「なぁ……お前、綺麗だよな」唐突にそう言う君に、私は呆気にとられた事を憶えております。お世辞にもそんな事を言われるのは初めてでしたもので。
周囲の視線などお構い無しに私へと引っ付いてくる君に初め私は戸惑いを隠せませんでした。でも、月日が経つごとにそれは当たり前の事となり、私にとって君は大切な存在へと変わっていっておりました。恋心……と呼ぶべきでしょうか。それとも若気の至りと呼ぶべきでしょうか。
私たち二人は良く女学校の中庭にあるベンチに座り、そして互いの手を握りあい過ごしたものです。どちらからと言われても忘れてしまいました。ただ、それは自然の成り行きだったのでしょうね。まるで磁石のS極とN極のように惹かれ合う。対照的な私と君。言葉少なくとも、心地よい二人だけの時間。
夏は木陰に並んで座り涼をとり、秋は金色の稲穂揺れる田圃道を並んで歩き、冬は辺りを純白の世界へと変えた積もる雪に並んで足跡をつけてまわり、季節は君と迎える二度目の春がやって来ました。いつものように中庭のベンチに座り手を握り、春の暖かで心地よい風を愉しむ私達。
瞼を閉じ春の陽気を浴びる君の横顔に手を伸ばしその頬に触れると、ゆっくりと目を開け私の方へと顔を向けてくれました。照れを隠すかのように微笑む君。いつも勝気な君が見せるその表情。私はそんな君に顔を近ずけると、思わずそのぷるんとした柔らかな唇に自分の唇を重ねてしまいました。
君の体が強ばるのが私に伝わって来ます。でも、君は私の体を押しのけること無く受け入れたのです。それから、私達は人目を忍んで互いの唇を重ねました。その度に漏れる吐息。目眩《めまい》のようにくらくらとする頭。しかし、このような関係がいつまでも続く事はありません。私達もそれは例外なく訪れました。
昭和二十年六月十九日。
私と君は、あのベンチに座り、手を繋ぎ、お喋りをして唇を重ねました。それはなんらいつもと変わらない日でした。読書をしている私の横で鼻歌を口ずさむ君。時々、君は私へとちょっかいを出してきては悪戯っ子のような笑顔で誤魔化していましておりました。今でも、昨日の事のように思い出せます。
しかし、その日を最後に私は君を失いました。君は私の手の届く事の無い遠い遠い所へといってしまったのです。私の胸は哀しさと寂しさで張り裂けそうになりましたが、不思議と涙は出てきませんでした。あれほど愛しくて堪らなかった君を失ったというのに。私は冷たい女だったのでしょうか。
そして月日は流れ、私は大人になりお見合い結婚をしました。寡黙でしたが良い夫と、それに子宝だけではなく、たくさんの孫、曾孫にも恵まれ、大勢の家族に囲まれて幸せな日々を送っております。それでも、春になると初めて唇を重ねたあの日の君の事を思い出してしまいます。淡い青春の一ページとして。
令和二年四月二十日。
昭和、平成、そして令和。君と初めて唇を重ねてから七十五年の歳月が流れました。私もそろそろ君の元へといかなければならないようです。また、逢えるのかは分かりません。もし逢えたとしても、君はあの頃のままの少女姿。私は歳をとったおばあちゃん姿。君はそんな私を見てどう思うのかしら。
また逢えるとは分からない君の事を考えてはやきもきしている自分が可笑しくて、思わず笑ってしまいました。淡い青春の一ページ。若気の至り。若さ故の勢い。確かに、そうかもしれません。でも、間違いなくあの頃の私は君を愛していたのです。瞼を閉じると君が私に手を伸ばしてくれています。
私はその手を握りました。君を失ってから一度も流した事のなかった涙が今になって零れていきます。ぽろぽろ……ぽろぽろと頬を伝い落ちていきます。そんな私へと暖かな表情で微笑み掛けてくれる君。春になると思い出していたその笑顔。その笑顔が今、私の目の前にあるのです。
気づけば私もあの頃の少女の姿へと戻っていました。そして、私達は手を繋ぐと、まるで春のような優しい陽射しが降りそそぐこの道を歩き出しました。私達以外、誰もいないこの道をゆっくりと二人並んで。
病室で静かに息を引き取った老婆の周りに駆けつけた家族。
「曾おばあちゃん……涙を流してるけど、でも幸せそうに笑ってるわ。最後に何か良い夢を見たんでしょうね。」
曾孫と思われる制服姿の少女は、その老婆の顔を見て呟いた。老婆の頬を流れる涙。でもその表情は本当に幸せそうな笑顔であった。
私にとって春は、君の事を思い出す季節でしかありません。だからと言って寂しい季節とは思いません。淡い思い出とでも言いましょうか。今でも瞼を閉じれば君がいます。若き日の私と君。その若さ故の勢いで過ごした日々。その事に対し後悔もなければ、戻りたいという気持ちもこれっぽっちもないのです。
お互いに対照的だった二人。私は引っ込み思案で友達も少なく、いつも昼休みは一人で読書、君はムードメーカー的存在で多くの友達に囲まれていました。そんな私たちがどのように知り合ったかなんて、そんな事は遠い過去の話し故、覚えておりません。ただ、気づけば二人で過ごす日が増えたのは確かです。
頻りに話し掛け、一人で読書をしている私の邪魔をする君にいつも辟易していました。私の君への抵抗は黙って上目遣いで睨む事だけ。君はじっと私を見つめ「なぁ……お前、綺麗だよな」唐突にそう言う君に、私は呆気にとられた事を憶えております。お世辞にもそんな事を言われるのは初めてでしたもので。
周囲の視線などお構い無しに私へと引っ付いてくる君に初め私は戸惑いを隠せませんでした。でも、月日が経つごとにそれは当たり前の事となり、私にとって君は大切な存在へと変わっていっておりました。恋心……と呼ぶべきでしょうか。それとも若気の至りと呼ぶべきでしょうか。
私たち二人は良く女学校の中庭にあるベンチに座り、そして互いの手を握りあい過ごしたものです。どちらからと言われても忘れてしまいました。ただ、それは自然の成り行きだったのでしょうね。まるで磁石のS極とN極のように惹かれ合う。対照的な私と君。言葉少なくとも、心地よい二人だけの時間。
夏は木陰に並んで座り涼をとり、秋は金色の稲穂揺れる田圃道を並んで歩き、冬は辺りを純白の世界へと変えた積もる雪に並んで足跡をつけてまわり、季節は君と迎える二度目の春がやって来ました。いつものように中庭のベンチに座り手を握り、春の暖かで心地よい風を愉しむ私達。
瞼を閉じ春の陽気を浴びる君の横顔に手を伸ばしその頬に触れると、ゆっくりと目を開け私の方へと顔を向けてくれました。照れを隠すかのように微笑む君。いつも勝気な君が見せるその表情。私はそんな君に顔を近ずけると、思わずそのぷるんとした柔らかな唇に自分の唇を重ねてしまいました。
君の体が強ばるのが私に伝わって来ます。でも、君は私の体を押しのけること無く受け入れたのです。それから、私達は人目を忍んで互いの唇を重ねました。その度に漏れる吐息。目眩《めまい》のようにくらくらとする頭。しかし、このような関係がいつまでも続く事はありません。私達もそれは例外なく訪れました。
昭和二十年六月十九日。
私と君は、あのベンチに座り、手を繋ぎ、お喋りをして唇を重ねました。それはなんらいつもと変わらない日でした。読書をしている私の横で鼻歌を口ずさむ君。時々、君は私へとちょっかいを出してきては悪戯っ子のような笑顔で誤魔化していましておりました。今でも、昨日の事のように思い出せます。
しかし、その日を最後に私は君を失いました。君は私の手の届く事の無い遠い遠い所へといってしまったのです。私の胸は哀しさと寂しさで張り裂けそうになりましたが、不思議と涙は出てきませんでした。あれほど愛しくて堪らなかった君を失ったというのに。私は冷たい女だったのでしょうか。
そして月日は流れ、私は大人になりお見合い結婚をしました。寡黙でしたが良い夫と、それに子宝だけではなく、たくさんの孫、曾孫にも恵まれ、大勢の家族に囲まれて幸せな日々を送っております。それでも、春になると初めて唇を重ねたあの日の君の事を思い出してしまいます。淡い青春の一ページとして。
令和二年四月二十日。
昭和、平成、そして令和。君と初めて唇を重ねてから七十五年の歳月が流れました。私もそろそろ君の元へといかなければならないようです。また、逢えるのかは分かりません。もし逢えたとしても、君はあの頃のままの少女姿。私は歳をとったおばあちゃん姿。君はそんな私を見てどう思うのかしら。
また逢えるとは分からない君の事を考えてはやきもきしている自分が可笑しくて、思わず笑ってしまいました。淡い青春の一ページ。若気の至り。若さ故の勢い。確かに、そうかもしれません。でも、間違いなくあの頃の私は君を愛していたのです。瞼を閉じると君が私に手を伸ばしてくれています。
私はその手を握りました。君を失ってから一度も流した事のなかった涙が今になって零れていきます。ぽろぽろ……ぽろぽろと頬を伝い落ちていきます。そんな私へと暖かな表情で微笑み掛けてくれる君。春になると思い出していたその笑顔。その笑顔が今、私の目の前にあるのです。
気づけば私もあの頃の少女の姿へと戻っていました。そして、私達は手を繋ぐと、まるで春のような優しい陽射しが降りそそぐこの道を歩き出しました。私達以外、誰もいないこの道をゆっくりと二人並んで。
病室で静かに息を引き取った老婆の周りに駆けつけた家族。
「曾おばあちゃん……涙を流してるけど、でも幸せそうに笑ってるわ。最後に何か良い夢を見たんでしょうね。」
曾孫と思われる制服姿の少女は、その老婆の顔を見て呟いた。老婆の頬を流れる涙。でもその表情は本当に幸せそうな笑顔であった。