スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

 啓五の勢いに押されてここまで来てしまったが、両親にも、兄にも、友人にも、勤め先にも何の報告もしていない。普通ならもっと周囲への報告や連絡を重ねて、心と環境の準備をすべきところなのに。

「それ、すぐ出すの……?」

 ただの紙切れ一枚だが、その婚姻届を役所に提出するかどうかで陽芽子を取り巻く環境は大きく変化する。もちろん啓五もそうだろう。

 恐る恐る訊ねると、啓五はきれいに畳んだ書類を陽芽子の目の前に差し出してきた。

「これは陽芽子に預けておく。不安になったり、すぐにでも結婚したいと思ったら、好きなときで出していいから」

 判断は陽芽子に任せる、と啓五が微笑む。その言葉に陽芽子も少し驚いてしまう。

 陽芽子はずっと、自分も早く結婚したいと思っていた。

 その理由は仕事から逃れるためではない。辛いときや寂しいとき、誰かに頼りたいときに、うんと甘えられる人に傍にいて欲しかったから。大変な日々からほんの少しだけ抜け出て、疲れをほぐすように癒されて、お互いを高め合っていけるような存在が欲しかったから。

 不安定な『恋人』という関係ではなく、本人や周囲の人、法律さえも認める『家族』の関係が欲しかったから。

 啓五はきっと、陽芽子のそんな不安を理解してくれるのだろう。陽芽子が願ったらいつでもその関係を始められるように。

 右手を差し出して、折り畳まれた婚姻届を受け取る。

「――って、言えたら格好いいんだけどな」

 瞬間に、啓五がその書類を自分の頭よりも高い位置へ持ち上げてしまった。当然陽芽子がその書類を受け取れることはなく。

「…………は?」
「これは俺が預かる」
「え、えええぇ……?」

 差し出した手に何も乗せられない空虚を感じていると、代わりに啓五の微笑みが落ちてきた。

 つい数秒前まで陽芽子の感情を優先してくれていたはずの優しい婚約者に、あっさりと手のひらを返された気分を味わう。

「私、そんなに信用ない?」
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