離れない掌
 君はいつまでも僕の手を離そうとしなかった。



 卒業式から三日後。僕は君に呼び出され、卒業した中学校の前にある公園へと足を運んだ。そこには見慣れた制服姿の君じゃなく私服の君がいた。卒業式を終えたせいか、それとも私服のせいか君は少し大人びて見える。僅か三日。君の姿を目にしていない時間。

 その三日で、君が大きく成長したように見えた。逆に僕は君にどう見えているんだろうか。その不安が頭をよぎる。そんな僕の胸の内等知らないだろう君は、少し照れたように僕へと微笑んでいる。

「ごめんね……呼び出したりして」

 相変わらず小さな声。近付かないとよく聞き取れない。すっと近付く僕。

 近付いた僕に、君は少し驚き戸惑いをみせた。しかし、すぐに君も僕の方へと歩み寄り、公園のベンチを指さし、座ろうと言ってきた。確かに、公園のど真ん中で立ち話もなんだろう。僕ら二人はベンチに座った。二人の間の微妙な隙間。その隙間が僕らのよく分からない関係を物語っている。

 僕らは付き合っている訳ではない。それどころか、特に仲が良かったと言える程の関係でさえない。たまに挨拶を交わす程度のクラスメイト。会話をしたと言う記憶もあまりなく、話しかけられても声が小さくて、近付かないと聞こえない。そればかりが印象に残っていた。今日もそうだ。

「あ……あのね……」

 俯きながら口を開き始めた君。隣にいるのに声が小さく、また震えているせいもあり、余計に聞き取り難い。僕は空いている隙間を埋めた。僕の体と君の体がぴたりと引っ付いた。びくりとする君の体の動きが僕へと伝わってくる。その動きに僕までびくっとなってしまった。

 なんなんだ……僕は自分までつられて体がびくっと動いた事がとても恥ずかしくなった。

「ごめんね……私、緊張しちゃって」

 君のせいじゃない。だから謝らなくても……僕はそれを言葉に出せず、ただ頭を掻いた。

「私ね……」

 鈍感な僕でも分かる。このシチュエーション。

 また沈黙。静かで気まずい雰囲気。俯きスカートを握っている君。それでも僕は君の言葉の続きを根気強く待った。春の陽気は暖かかったけど、吹く風はまだまだ冷たさを残している。冷えるのか、それとも緊張の為か君は少し震えている。

「ちよっと待ってて」

 僕はそう言うとベンチから立ち上がった。

 突然の行動に驚く君を置いて、僕は公園を出ていった。ほんの少しの時間。正確に言うと五分も掛からなかっただろう。それなのに、公園に戻るとベンチで待つ君は一人残され不安だったのか、その大きな瞳に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。慌ててベンチへと戻る僕。息が切れている。

「ごめんね、これを買いに行ってたんだ」

 僕は君へとペットボトルのホットココアを差し出した。

「……え」

「寒そうだったから」

 戸惑いながらそのホットココアを受け取る。

「暖かい……」

 嬉しそうに顔を綻ばせた君は、ホットココアを頬へとあてた。その表情に僕の心臓ががつんと何かで殴られた。

「ありがとう」

 君の喜色溢れ出すその笑顔を、僕はただ無言で見つめていた。胸が苦しくなったと同時に頭に血が昇り、ほわほわとしてしまう。何故だろう、君を見つめていてはいけない、そんな気さえしてきた。僕の視線に気づき、恥ずかしそうに俯く君。それにつられて僕まで視線を逸らしてしまった。

 また君の横に座ったのは良いが、先程と変わらず無言のまま、時間だけが過ぎていく。だけど、それまでと違う事がある。ホットココアを買いに行く前は隣に座っていても何も感じなかった。いや、正直に言えば、女の子と二人きりになる機会なんてそうないから、少しは緊張していたけど、それだけだった。

 だけど、今はどうだ。あの君の笑顔をみた瞬間、僕は胸の高鳴りが抑えられなくなっている。君はホットココアを一口飲むと、ほうっと吐息を漏らした。長いまつ毛。ほんのりと桜色に染まっている頬。ぷるんとしたさくらんぼのような唇。僕は隣に座る君の顔を見ている。初めてしっかりと見た気がする。

「私ね……あなたの事が好き」

 小さくて消えそうな声だった。でも、僕のにはその声が、まるで野外ステージに設置された大きなスピーカーから鳴らされている位に大きく聞こえた。ぐらんぐらんと頭がまわる。そしてばくばく、ばくばくと心臓が早鐘を打つ。言葉が出ない。

 まるで酸欠の金魚のようにぱくぱくと動くだけの口。

「ごめんね……そうだよね……迷惑だよね……突然こんな事を言われても」

 僕の反応を見て悲しそうにそう言う君は、また涙を浮かべて俯いた。違う……違うんだ。僕は咄嗟に君の両肩を掴んだ。ぱっと顔を上げた君はその大きな瞳で僕を見た。

 その瞳に吸い込まれてしまい、余計に何も言えなくなってしまう。僕はすっとその瞳から視線を逸らした。

「嬉しいよ……とても」

 それを伝えるだけでいっぱいだった。まだ、僕が君へと恋に落ちてしまったなんて分からなかったから。それでも、嬉しかったのは本当の事だ。

「ありがとう……耕平(こうへい)くん」

 両肩を掴む手に、君はそっと手を乗せた。小さな柔らかい手。君は花が咲いたような微笑みを僕へと向けている。さくらんぼのような瑞々しい唇の隙間から見える白く綺麗に並ぶ歯が眩しかった。

「私の気持ちを聞いてくれて……ありがとう」

 そう言うと君はベンチから立ち上がった。そして小さく手を振る。

 僕は帰ろうとする後ろ姿の君へと手を伸ばし、その細くて白い腕を掴んだ。振り返る君は泣いていた。どうして泣いているんだ。どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだ。さっきまで微笑んでいたのに。

「なんで……」

 君はそう言ったが、それは僕の台詞だ。とりあえずもう一度ベンチへと座らせた。

 君は僕の手を握り、ぐしゅぐしゅと鼻を啜りながら泣いている。

「あなたに振られたんだもの……」

 僕は自分の耳を疑った。いつ僕が君を振ったんだ。それは君の勘違いだろう。

「僕は……君を、齋藤(さいとう)を振った覚えは無いよ」

 齋藤はその言葉に驚き、きょとんとした顔で僕を見ている。

「だって……耕平くん、困ったような顔してたから……」

 あれは困っていたのは確かにそうだけど、齋藤から告白されたのが嫌だった訳じゃない。僕は自分が齋藤へ恋に落ちた……のかもしれない、その気持ちがまだはっきりとしていない事に対してだ。それに困ったと言うより、てんぱっていた方が大きい。

 それを何とか齋藤へとしどろもどろになりながら伝えた。上手く伝わったかどうかは分からないが、齋藤の大きな瞳がさらに大きく開かれ僕を見つめていた。

「本当……?」

「なんで嘘つく必要がある?」

 齋藤は握っている僕の手をいつまでも離そうとしなかった。そんな齋藤の手を僕も握り返した。

 それから僕達は付き合い出して、三年の月日が経った。

 あの春の日と比べ大人に近付いた齋藤はとても綺麗になった。相変わらず声は小さいけど、僕はもうそれに慣れてしまい、聞き直さなくても良くなっていた。中学の卒業式の後に付き合い始めた僕らは今年の三月に高校を卒業する。あっという間だった。色んな所に行ったし、喧嘩もした。全て懐かしい思い出。

 卒業後、僕らは離れ離れになる。齋藤は地元の大学に、僕は関東の大学へと進学する。残り数ヶ月。僕と齋藤が一緒に過ごせる時間。齋藤はすぐに手を繋いでくる。指と指を絡めて、楽しそうに鼻歌を口ずさみながら歩く。

「私はとても幸せだわ」

 少し照れたように小さな声でそう言う。僕も同じだよ。

 決して口には出さないけど。僕ら二人は離れ離れになるその日まで、時間さえあればいつも一緒にいた。ずっと手を繋ぎ、その存在を確かめあった。君の温もり、鼓動、そして匂い。それを忘れない為に。そして、自分の体へ互いの印を刻むように抱き合った。幾度も幾度も。頬を伝う君の涙。握り合う掌。

 卒業式の数日後、僕は大学のある関東へと向かう電車の中にいた。






 玄関の鍵を開ける。すると、三歳になったばかりの娘がとてとてと出迎えてくれた。娘を抱き上げ、その柔らかい頬にキスをすると、くすぐったいと笑っている。娘の後ろから妻が「おかえりなさい」と僕へ微笑みかけてくれた。これは幸せな家庭の一風景なのか、それとも、どこにでもありそうな場面なのか。

 そんな事は分からない。でも、今の僕がとても幸せなのはよく分かる。大学を卒業し、就職してから数年後に結婚。娘を授かった。そして、今も二人目が妻のお腹の中にいる。

「耕平くん、今日お義母さんがいらしたわよ」

 ミートソースで汚してしまっている娘の口の周りを拭きながら妻が言った。

「何しに?」

「近くによったんで、私と愛梨の顔を見にきただけだって仰ってたわ。お茶を飲まれるとすぐにかえられたわよ」

 男ばかり三人の子供を育ててきた母は娘も欲しかったらしく、義理の娘となる妻を本当の娘のように可愛がっている。実際、僕に会わなくても妻と孫には会いたいと良く言っている。

「また、愛梨(あいり)の洋服や私へのプレゼントをたくさん頂いちゃった」

 嬉しそうに話す妻。嫁姑が仲良くしてくれており、本当に助かっている。食事を終え、愛梨と風呂に入った。CMで流れている曲の同じフレーズをずっと歌い続けている愛梨。その声が浴槽の中に響いている。

 先に風呂から上がった愛梨の髪を妻が乾かしている。今度は妻と一緒に歌っているようだ。風呂から上がり僕の膝の上に座ってテレビを観ている愛梨がこっくりこっくりと船を漕いでいる。そんな愛梨を抱っこして布団へと運ぶと、僕も愛梨と一緒に横になった。寝顔が妻によく似ている。

 長いまつ毛、さくらんぼのようなぽってりとした唇。この子もやがて大きくなり、恋をして、僕の手から離れて行くのだろう。そっと頬を撫でると、その手を愛梨の小さな手が握ってきた。小さな小さな手で、僕の手をきゅっと握りしめる。愛らしい口元がもぐもぐと動いている。

 あの日、関東の大学へ行く僕は君と二人、駅で新幹線を待っていた。その間、君はずっと僕の手を握っていた。

「三番線に東京行き……」

 場内に新幹線が到着する旨のアナウンスが聞こえた。

「……」

 ゆっくりとその大きな車体を軋ませながらホームへと入ってくると、空気の抜ける音と共にドアが開いた。

 僕は新幹線に乗ろうとしが、君はいつまでも僕の手を離そうとしなかった。

「元気でね、電話してね……私の事、忘れないでね」

 俯いている君の足元にぽとぽとと涙が落ちていく。そんな君を僕は堪らずに抱き寄せた。僕の腕の中で震えている君は場内に発車を知らせるベルが聞こえてくると僕から離れた。

 懐かしい思い出だ。今は齋藤……否、妻と僕の娘が小さな寝息を立て、僕の手を握り、離そうとしない。まるであの時の君のように。

「今日はぐずらずに寝たわね」

 妻は愛梨の側に座ると顔を覗き込みふふふっと笑っている。

「ココア飲むでしょ?」

 そっと娘の手を離した僕は妻とリビングへと向かった。
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