√セッテン
その笑顔が俺にはひどく辛く感じた。

「敦子」

「………………」

敦子は、微動だにしない。朝というには早すぎる、夜というには浅い

名前を呼んで、次に出る言葉が、敦子に止められた。

敦子はそっと俺の背に手を回し、ぎゅ、と抱きしめた。

「聞こえるよ、潤の心臓の音」

「……」

「不思議だよね、まるで頭の中で、CD再生してるみたいなんだけど、でも……途中で、涙を我慢するみたいな、鼻をすする、悲しい声が交じるの」

蔵持七海が、泣きながら歌っているんだろうか?

何が悲しくて?

悲しいのは、まさに俺だ。

「暗闇の中、泣いてる」

敦子は短く歌うとまたぎゅっと手に力をこめた。

「潤の鼓動だけが、私の現実」

キラリ、と敦子の胸元でオープンハートが輝く。

「潤が負けないなら、私だって負けない」

歩いて5分ほどして、アムリタへつく。

周囲は異臭が満ちていたが、店内に入ったときの異臭と比べれば薄かった。

「黒沢、車見てろよ」

急に後ろから声がした、堀口俊彦だった。

「いえ、もう平気です」

堀口俊彦の手にはビニール袋。中にはマスクやら、なにやらが詰め込まれていた。

「かれこれ4、5時間は換気したことになりますしね」

「そうだな、しかし、ドアがどうしても固くてな。今も中で霧島さんがドアと格闘してる」

あの細身の体で、こじ開けようと頭をひねっているころなのだろうか

俺は堀口俊彦の後を追った。

正面の黒いドアは相変わらず空いていなかった。

深夜開けたスタッフ入り口から入る。

入り口付近の異臭は、外と同じくらいまで薄まっていた。

照明がなくても、なんとか歩けた。

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