薄氷
…排ガスを思わせる匂いが鼻腔にとどく。かすかな息づかいの音が、そこに重なる。

身勝手な欲望を吐き出したのち、一服しているのか。
最低だ…

手首の(いましめ)は解かれたが、痺れと精神・肉体双方の痛みで、すぐには動かすことができなかった。

ようやく蹂躙(じゅうりん)された身体を這いずるように起き上がり、なんとか身だしなみを整える。
指がふるえてボタンがうまくかけられず、ひどく時間がかかった。血が止まっていることを願いながら下着を身につける。

佐澤洸暉はベッドのふちに腰を下ろしてこちらに背を向けたまま、なにも言わなかった。タバコを吸い終えたのか、両手は所在なげに膝においている。

ずりずりと膝で這ってベッドのふちにたどり着く。
鞄はどこだ…視線をさまよわせると、彼の鞄と折り重なるように床に転がっているのが目に入った。

鞄を持って、帰る。頭にあるのはそれだけだ。

足を伸ばして、慎重にベッドから下りる。
段差がひどく高く感じられた。
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