薄氷
「だいじょうぶ?」

隣から投げられた声に、肌が粟粒立つ。
なにを言っているんだ、この男は。だいじょうぶなわけないだろう。

「泊まってく?」

泊めて、なにをするつもりなんだ。これ以上の屈辱を強いる気なのか。
顔に飛んできた虫を払う勢いで首を振り、鞄を掴みとった。

背に彼の視線を感じながら、ドアに向かう。ひょっとしてロックされているのではという危惧が頭をよぎったが、すんなりドアは開いた。

廊下を抜けて玄関に着いたものの、スニーカーを履くのにも、上がり框に座りこむほどだった。
足がふらつく。

佐澤洸暉が近づいてくるのが、視界のはしに映った。
靴紐を結んでいると、かたわらに立った彼から「送ってく?」とまたも声がかけられた。

ふざけんな、と無言で立ち上がる。

「道分かる?」

足が止まる。…分かんないよ。
まだ引っ越してきて一ヶ月くらいで、このあたりには来たこともない。勝手に連れてこられて…
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