薄氷
「三十分くらいかかるな」ぼそっと彼がつぶやく。

この体で三十分も歩くのかと思うと、気が遠くなりそうだった。
街灯がまばらな田舎の道は暗い。バスもタクシーも通っていない。
なんでこんなに不便なんだろう。まあタクシーに乗るお金なんかないけど。

帰る、帰る、帰る…その一念だけで、足を前に動かし、へたりこみそうになる体を運ぶ。

「持とうか?」
信号待ちで足を止めたとき、陽澄が肩にかける鞄に視線を向けて、横から声がかかった。

いや、かまわないで、頼むから。
何も言わずに彼からさらに距離をとる。
鞄の重さはさほどつらくなかった。むしろ肩にかかるその確かな重みが、ばらばらに千切れそうな体をどうにか繋ぎ止めている気がした。

半歩先を猫背ぎみに歩く彼は手ぶらで、ネクタイは外したまま、シャツの裾がズボンの後ろからはみ出している。

なんなんだろう、いったい…
声が枯れるほど泣き叫んだのに、また涙がこぼれそうになる。

他の女性も凌辱されたのち、相手の男に家に送ってもらったりするんだろうか。
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