薄氷
洸暉がおかれた複雑な境遇が、理解できないわけではない。

閉鎖的な田舎町を牛耳る一族の総領息子として、常に人の視線を意識しなければいけない身だ。
人は上っ面は佐澤の坊とへつらいつつ、その実、妾の子と腹では舌を出しているのだ。
なまじ並以上の鋭敏な感性と、高い知性を持っていればこそ、(なず)むことができず現実を倦むしかないのかもしれない。

だからといって、その孤独になぜ自分まで引きずりこまれなくてはいけないのか。

なるほど彼は孤独かもしれないが、まぎれもなくお金持ちのお坊ちゃんだ。
経済的な心配がないだけ恵まれているのだと、今の自分は知っている。

容姿も悪しからず、数学と文学にささやかながら心預ける場所を見出している。
それで十分ではないか。

なぜ何も持っていない自分から奪う。なぜ自分を(にえ)に選んだんだ。
佐澤の坊なら、喜んで身をまかせる女が他にいくらでもいるだろうに。

東京を未練がましくずるずると引きずりながら、志深にやってきた陽澄の髪を、彼はむんずと掴まえた。
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