信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています
5月某日

高畑樹の日常



「社長、お時間です。」


 ゴールデンウイークが明けて、日常業務が再開された。

秘書の江本郁子(えのもといくこ)から声を掛けられた社長の高畑樹(たかはたいつき)は、
椅子から立ち上がり薄手のジャケットを羽織った。一目で仕立ての良さがわかる上着だ。


 新宿にある高層ビルの上階に、高畑コーポレーションの社長室はある。
晴天なら、南向きの大きな窓から遥か東京湾や房総半島まで望む
見晴らしのいいオフィスだ。

 爽やかな5月。新宿御苑の緑が鮮やかに眼下に広がっていた。
しかし、樹が見つめるのはいつも白や灰色の高層ビル群だ。
社長室もシックなモノトーンのインテリアで統一されている。
彼の周りはいつも無彩色だった。



「飛行機の中は、ゆっくりお休み下さいませ。」

今年38歳になる樹より10歳年上の郁子は、いつも細やかな心配りをしてくれる。

若くして祖父の後を継いだ樹にとって、温かくも厳しく接してくれる秘書は
無くてはならない存在だった。

「いや、機内でもいくつか懸案事項をこなしたいから、大丈夫だ。」

「樹さん…この所、お休み取られてませんよ。」

社長室を出て、二人はエレベーターホールへ向かった。

「まだ若いから大丈夫さ。」

「そんな事おっしゃって…無理してはダメです。」

エレベーターの中で、郁子が幼い子を諭すように言った。
ふっくらとした頬の上にチョコンと乗っかる丸い眼鏡がご愛敬だ。
その奥の瞳は心配そうに樹を見つめている。

高速でエレベーターは下がって行く。


「よろしかったら、牧場をお訪ねになってはいかがですか?」

「…森下牧場の事か?」

「オーナーがお亡くなりになって一年です。…彩夏(さやか)さんと…
 お会いになってはいかがでしょうか?」

「あれの事は、君に任せているだろう。今更、会う必要があるか?」

エレベーターが一階に着いた。

「そろそろ、後継者の事も…お考え下さい。」

「………。」

樹は黙ったまま、黒塗りの社長車に乗り込んだ。

「いってらっしゃいませ。」

江本郁子は深々と頭を下げながら心の中で毒づいた。

『昔から、ご自分に都合が悪いと黙り込むんだから…。』



車が羽田に着く時間を考えながら、郁子はビルの中に戻って行った。



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