信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

衝動

  
 心配していたカンナの出産が無事終わり、
彩夏は厩舎の側の厩務員社宅にある浴場を借りてから母屋に帰った。
もう深夜に近い時間だ。

『真由美さん、夜食用意してくれてるかな…』

前庭を歩きながらふと自室を見上げたら、ぼんやり灯りが付いていた。
真由美が気を利かせてくれたらしい。
暗い部屋に戻るのは、大人になっても苦手だった。
 
 一日の疲れがどっと押し寄せてくる。
朝から樹の来訪があり、シンポジウムをこなし、樹に離婚届を渡したあと
馬の出産だ。本当にハードな一日だった。
厩務員社宅の広い湯船に浸かった事だけが今日のご褒美かしら…
と思いながら母屋に入ると、真夜中の広い洋館はシンと静まりかえっていた。
ゆっくり階段を上がり、二階の自室のドアを開けた。

「おかえり。遅かったな。」

「ええっ!」
思わず大きな声が出てしまった。そこには樹がいた。

「どうして?何であなたがここにいるの?」

驚く彩夏を無視して、樹は今朝と同じコーヒーテーブルの前に座ったまま、
冷たい声で言った。

「これ、何?」

その指がさすのはテーブルの上の茶封筒だ。

「見たんでしょう?」
「何故、こんな物、君が用意してる?」

「だって、あなたに…私達に必要でしょう?」
「君は、俺がこれ(・・)を必要としてるって考えたのか?」

「…あなた他に、結婚したい人いるんじゃないの?」
「何故、そう思う。」

ああ、めんどくさい…
疲れて帰って、何故何故聞かれるのはたまらい。
ますます、彩夏の機嫌は悪くなった。
思わず口調もぞんざいになってしまった。

「この前、見たのよ、あなたが派手な女の人とホテルにいるところ!」
「ああ…長谷川夫人といた時か…。」
「気付いてたの?」
「君が帰った後で…長谷川夫人から名前を聞いてわかった。」

「見違えたよ…。」
「………。」

「君は、俺と離婚したいのか?」

「…だって、私たち結婚してるって言えるかしら?
 10年も別れて暮らしているし、お互いの事何も知らないじゃない。
 きちんと顔を見ながらアドレス交換したのだって、今日が初めてよ。
 あなたは忙しいっていつも江本さんに任せっぱなしだし…。
 妻って形が欲しかっただけでしょう?もう、牧場も必要ないでしょう?」

勢いに任せて、彩夏の口からはこれまで言えなかった事が次々に溢れてくる。

「忙しかった事は謝罪する…。」
「そんな事はもういいわ。今更謝って貰ったって、
 10年の月日が戻ってくる訳じゃないもの!」


「10年か…君はまだセーラー服着てたな…。」



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