信じてもらえないかもしれませんが… あなたを愛しています

森下彩夏の日常

　
　森下彩夏(もりしたさやか)は、獣医師だ。
普段は大学の非常勤講師を勤めながら、畜産組合の獣医として働いている。
亡くなった祖父順三の牧場でも動物たちの健康チェックを受け持っていた。

かなり忙しい毎日だ。いや、忙しくして孤独を埋めようとしていた。

　彩夏には、幼い頃…両親を事故で亡くした頃の記憶はほとんどない。
祖父母の家で暮らし始めて、漸くぼんやりと事実が分かってきた。

ただ、怖かった。

　お気に入りのぬいぐるみを手にしていないと、怖くて怖くて仕方なかった。
夜、一人になると泣き出してしまうくらいに暗闇が怖かった。
いつ頃から一人で眠れる様になったのか覚えていないが、かなり大きくなってからだと思う。

　そんな彩夏を心配して、祖父は沢山の生き物を牧場で飼うようになった。
馬は勿論、牛や山羊、犬や猫まで…どこからか集めてきた。
最初は怖がっていた彩夏も、慣れたら何よりも動物を愛するようになっていた。
生き物と触れ合ううちに、彩夏は子供らしさを取り戻していったのだ。

　それからの彩夏は、明るく元気に育った。
その反対に祖父は、愛する孫娘の将来を心配するようになっていった。
牧場には支配人の久保田夫妻を始め、優秀なスタッフが揃っていたが、
祖父は彩夏に恵まれた将来を約束してやりたいと思ったのだろう。


　今にして思えば、なんと無謀な事かと思うのだが、
馬を通じて親友となった高畑コーポレーションの社長と相談して、
彩夏と高畑雄一郎(たかはたゆういちろう)社長の孫の樹(いつき)との結婚の約束を取り付けたらしい。

　良く馬を見に来る人くらいに思っていた都会のおじさまから
『孫のお嫁さんになってくれる？』
と話しかけられた時は吃驚した。まだ、彩夏は中学生くらいだったと思う。
訳も分からず、恥ずかしさのあまりコクコクと頷いてしまった。

無理もない、田舎の女子中学生に不似合いな会話だった。

　大人になってから、祖父達の思惑が利害を伴う複雑なものだと知った。
祖父は高畑家の後ろ盾を得て、事業を拡大していた。
インバウンド効果から、観光牧場にも手を広げたのだ。
勿論、高畑グループにも恩恵のある話だ。

『この結婚は、契約みたいなものね』

樹だって喜んで受けた話ではないだろう。田舎育ちの九つも年下の許嫁(いいなずけ)など
迷惑な話でしかないのだ。

どうしてあの時、樹の祖父の言葉に頷いてしまったのか…


彩夏はひたすら後悔していた。