ため息のわけを教えてください
 もうすぐ、最近気になっている常連客の来る時間だ。淡い期待に緩みそうな顔を矯正していると、自動ドアが開いた。大福さんの来店だ。チタンフレームの眼鏡に、膝の出た黒スーツ。真ん中分けの髪から覗くのは季節外れの日灼け肌だ。彼はレジに目もくれず、商品棚に向かっていく。毎日残業おつかれさまです。わたしは心の中で呟いて、のしのし歩く度に小気味よく震える、もっちりしたお腹を見つめた。

 これまで集めた情報によると、彼の名前は橋爪学。たぶん三十代半ばくらい。近隣の教育総合企業に勤めている男性だ。ほとんど話はしないが、以前、一度だけ特別な交流をした。

 わたしは彼に、老舗和菓子店で買ってきたレモン大福を渡したことがある。そのお礼として、彼は自分で釣り上げたアオリイカを持って来てくれたのだ。予想外すぎる品に驚くばかりだったのだが、後で冷静に考えたとき、それが誰にでもするような、簡単なお礼ではなかったことに気がついた。

 まずは貴重な休日を使ってアオリイカを釣りに行くところから始まる。一杯のみだったことを考えると、釣れすぎて行き場のなくなったイカというわけではないだろう。きっと貴重なものだ。


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