さっちゃん
五十代女性
照明がついているのにも関わらず、どこか暗さを感じるリビングに、五十代後半の女性が一人、どこかを見詰めると言うわけでもなく、ただ視線を宙に漂わせていた。
ぴぴぴぴぴっ……ぴぴぴぴぴっ……
テレビもついていない静かな部屋にタイマーの音が鳴り響く。ぼやぁとしていた女性がその音に反応し、ゆっくりと立ち上がるとタイマーを消し一つため息をついた。
「……もう時間か」
暗い廊下へと出ると照明もつけずに、のろのろと足を引き摺るように歩く女性。照明をつけずとも歩きなれた廊下。毎日毎日、決められた時間に行かなければならない突き当たりの部屋。その扉を女性はゆっくりと開けた。
そこにいるのは、寝たきりの義理の母親である。定期的に体位交換をしなければ褥瘡ができる。定期的に紙オムツ交換しなければ不衛生である。女性はその義母の介護を朝も昼も夜も毎日毎日、一日に何度も行っていた。
一通りの事をやり終えると、彼女はまたリビングへと戻りソファへと座り、二時間後にタイマーをセットした。自分の時間なんてない。子供たちは手が離れ、それぞれ独立し遠くへ住んでいる。しかし、毎日の家事は変わらない。そして、義母の介護も。
夫が長男だからと同居し始めて十九年。数年前よりその母親が寝たきりになった。
訪問介護などの介護サービスも初めのうちは頼んでいた。しかし、夫が嫌がった。他人が家へと入ってきて自分の母親の世話をするのが。それからずっと彼女がほとんど一人で義母の介護をしてきた。
それも限界がきたのだ。
サイドテーブルには封も開けられていない真新しいロープと白い封筒。封筒には宛名も何も書かれていない。
「疲れてんなぁ、おい。ほっといても過労死すんじゃねぇ?」
一人でいるはずの薄暗く静かなリビングで、突然、後ろから話し掛けられた女性は、びくりと反応し声の方へと振り返った。
そこにいたのは、濡鴉の様に艶のある黒髪を腰の辺りまで伸ばしている少女が、にたにたと笑いながら女性の方を見下ろすように立っていた。
「……誰?」
普通なら見知らぬ少女が家の中にいたのなら驚くし、警戒もするだろう。しかし、彼女は既にそんな感情も失せてしまっているかのような精の抜けきった表情をしてさっちゃんをじっと見ているだけであった。
「私か?私はさっちゃん。夜分遅くにごめんなぁ、へっへっへっ」
「……さっちゃん」
虚ろな瞳でさっちゃんを見上げる女性は、さっちゃんの周りだけがぼやっと光っているように感じた。実際に光っているわけではなかったのだが、異質なさっちゃんの存在が自然とそう見せているのだろう。
そんな女性の思いなど関係なしに、対面のソファへと遠慮なく腰を下ろしたさっちゃんは、相変わらずその顔に人を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
「で?こんな薄暗い部屋に一人で何やってたんだ?」
「……いぇ、特に何も」
「てめぇ、暇人か?」
「……暇人では」
ぼそぼそと答える女性へ、あからさまにちっと大きな舌打ちをするさっちゃん。
「義母の体位交換を二時間おきにしなくちゃならないので……あと一回したら、寝室へ戻ります」
「てめぇ、一人でやってんの?」
「はい、夫は忙しい人ですから……」
そう言うと、女性はソファから立ち上がりキッチンの方へと消えていく。そしてしばらくすると、お盆に急須と湯呑みを二つ、お盆にのせて帰ってきた。
静かな室内では、こぽこぽとお茶を湯のみへと注ぐ音が大きく感じる。
「てかよぉ……施設に入ってもらえば良いじゃん?もう、在宅で見るには限界にきてんじゃねぇか」
お茶を注ぐ女性を眺めながらさっちゃんが尋ねた。湯呑みをさっちゃんの前へと置く女性が俯きながらぽつりと答える。
「ご近所や会社での体裁が悪いと……」
「体裁?ぎゃははっ!! てめぇの嫁が介護苦にして自殺した方がよっぽど体裁悪いじゃねぇか?馬鹿じゃねぇのか」
げらげらと笑いながら言うさっちゃんに、女性もふふふっと自虐的に笑う。そして、湯呑みを両手で包み込むようにして持つと、一口お茶を啜った。
「……私がそんな事考えてるなんて、あの人は少しも思ってもないでしょうから」
「だろうな。てめぇの母親押し付けて、自分は知らんぷりの奴だからなぁ、へっへっへっ」
「昔からです。義母と同居する時も私に相談もせず突然だったし……介護サービス断った時も……」
「別れちまいなよ。全部捨てて、老後は華の独身生活楽しめばいいじゃんよ?」
さっちゃんも湯呑みを掴みお茶を啜る。しかし、かなり熱かったのか、それともさっちゃんが猫舌だったのか、あちぃっと顔を顰めるそんなさっちゃんを見ていた女性が少しだけ笑った。
「……私は、全てを投げ出し一人で生きれる程、強い人間じゃないから」
寂しそうにそう呟く彼女に、はぁっと大きなため息を一つついたさっちゃん。そして女性の方へと顔を近づけた。
「強ぇって何だよ?誰も強くねぇよ、てめぇが思ってるような奴らなんていねぇよ。みんなよぉ、弱さの塊なんだ。そいつらとてめぇの違うところはよぉ、自分の弱さを見つめ、受け入れているところだぜ」
「自分の弱さを……受け入れる?」
「そうだよ。自分の弱さを受け入れて、できる事、できねぇ事を分かってるんだ。なんでもかんでも背負い込まねぇんだ、てめえみてぇによ。そんなことしてりゃ、超人だって、化け物だって潰れてしまうぜ?」
さっちゃんはそう言うと、また湯呑みを口まで運び飲もうとしたが、熱かったのを思い出し、お茶へふぅふぅと息を吹きかけ冷ましている。いい感じに冷めたのかぐびりとお茶を一口飲み喉が潤ったのか、話しを続けるさっちゃん。
「誰かに助けを求める……恥じゃねぇよ。当たり前の事だ。その当たり前ができるか、できねぇかなんだよ?てめぇはできねぇから死ぬんだ。てめぇでてめぇを追い詰め、死んじゃうんだ」
黙って俯き話しを聞いている女性を見ながら、ぼりぼりと頭を掻くさっちゃんは、また一つため息をついた。
「でもよ長ぇ間、てめぇの時間も精神も削ってよ、よく頑張ったじゃねぇか、辛かっだろうさ。もう死ねよ?死にてぇんだろ?死んで終わらせろ、そんな人生。全てを背負って、全てを投げ捨て左様なら……てよ。そしたら、みんな気づいてくれるぜ?やっとてめぇの方を見てくれるぜ?てめぇが背負いこんでた物によ、苦しんでいた事によぉ」
「……」
「まぁ、私がなんだかんだ言ってもよぉ、それを決めんのはてめぇしかできねぇんだけどな。死ぬのも生きるのてめぇの意思一つさ」
最後にそう言い女性の肩を優しく叩くと、俯いていた女性が顔を上げさっちゃんの目を見詰めた。
「てめぇの人生だぜ。私のじゃぁない。どうなろうと勝手だけどよ、てめぇだけのために過ごしたって良いと思うぜ?」
涙ぐみながら見詰める女性へにたりとした笑みを浮かべるさっちゃんの体が、段々と消えていく。肩に置かれたさっちゃんの手を握りしめる女性。
「……あなたは、神様か何かなの?」
「惜しいね。神様は神様でも死神様だぁ。死神さっちゃん。てめぇが生きる事を選んで寿命を全うした時は、そんときゃ私が迎えに来てやるぜ。楽しみにしとけ」
へっへっへっと笑い声だけを残し、消えてしまったさっちゃん。女性はしばらくもさっちゃんが手を乗せていた肩に触れていた。
それから、その女性がどうなったかなんて私には分からない。ただ、介護を苦にして自殺したというニュースはここ最近は見ていない。まぁ、もしかしたら、私がテレビを見ていない間に流れていたら別だけど。
そして、あの家から少し離れたところにある公園に、孫を連れたお婆さんの姿を良く見かけるようになった。つい最近引っ越してきたお婆さんらしい。熟年離婚し、趣味や孫の世話にと老後を楽しんでいるらしい。
とある介護施設に、セーラー服姿の少女がにたにたとした笑みを浮かべて、一部屋一部屋を覗いて回っている。
誰かの親族なのであろうか?
しかしこの時代、プライバシーの観念から、一部屋一部屋を覗き回るなんて出来やしないはずであるのに関わらず、誰も注意しない。まるで、その少女の事が誰にも見えないかの様に。
「まだまだ、仕事はたくさんあるぜ、へっへっへっ」
ある程度覗いて回った少女は満足そうににたりと笑い、そう言い残すと介護施設から人知れず出ていった。
ぴぴぴぴぴっ……ぴぴぴぴぴっ……
テレビもついていない静かな部屋にタイマーの音が鳴り響く。ぼやぁとしていた女性がその音に反応し、ゆっくりと立ち上がるとタイマーを消し一つため息をついた。
「……もう時間か」
暗い廊下へと出ると照明もつけずに、のろのろと足を引き摺るように歩く女性。照明をつけずとも歩きなれた廊下。毎日毎日、決められた時間に行かなければならない突き当たりの部屋。その扉を女性はゆっくりと開けた。
そこにいるのは、寝たきりの義理の母親である。定期的に体位交換をしなければ褥瘡ができる。定期的に紙オムツ交換しなければ不衛生である。女性はその義母の介護を朝も昼も夜も毎日毎日、一日に何度も行っていた。
一通りの事をやり終えると、彼女はまたリビングへと戻りソファへと座り、二時間後にタイマーをセットした。自分の時間なんてない。子供たちは手が離れ、それぞれ独立し遠くへ住んでいる。しかし、毎日の家事は変わらない。そして、義母の介護も。
夫が長男だからと同居し始めて十九年。数年前よりその母親が寝たきりになった。
訪問介護などの介護サービスも初めのうちは頼んでいた。しかし、夫が嫌がった。他人が家へと入ってきて自分の母親の世話をするのが。それからずっと彼女がほとんど一人で義母の介護をしてきた。
それも限界がきたのだ。
サイドテーブルには封も開けられていない真新しいロープと白い封筒。封筒には宛名も何も書かれていない。
「疲れてんなぁ、おい。ほっといても過労死すんじゃねぇ?」
一人でいるはずの薄暗く静かなリビングで、突然、後ろから話し掛けられた女性は、びくりと反応し声の方へと振り返った。
そこにいたのは、濡鴉の様に艶のある黒髪を腰の辺りまで伸ばしている少女が、にたにたと笑いながら女性の方を見下ろすように立っていた。
「……誰?」
普通なら見知らぬ少女が家の中にいたのなら驚くし、警戒もするだろう。しかし、彼女は既にそんな感情も失せてしまっているかのような精の抜けきった表情をしてさっちゃんをじっと見ているだけであった。
「私か?私はさっちゃん。夜分遅くにごめんなぁ、へっへっへっ」
「……さっちゃん」
虚ろな瞳でさっちゃんを見上げる女性は、さっちゃんの周りだけがぼやっと光っているように感じた。実際に光っているわけではなかったのだが、異質なさっちゃんの存在が自然とそう見せているのだろう。
そんな女性の思いなど関係なしに、対面のソファへと遠慮なく腰を下ろしたさっちゃんは、相変わらずその顔に人を馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
「で?こんな薄暗い部屋に一人で何やってたんだ?」
「……いぇ、特に何も」
「てめぇ、暇人か?」
「……暇人では」
ぼそぼそと答える女性へ、あからさまにちっと大きな舌打ちをするさっちゃん。
「義母の体位交換を二時間おきにしなくちゃならないので……あと一回したら、寝室へ戻ります」
「てめぇ、一人でやってんの?」
「はい、夫は忙しい人ですから……」
そう言うと、女性はソファから立ち上がりキッチンの方へと消えていく。そしてしばらくすると、お盆に急須と湯呑みを二つ、お盆にのせて帰ってきた。
静かな室内では、こぽこぽとお茶を湯のみへと注ぐ音が大きく感じる。
「てかよぉ……施設に入ってもらえば良いじゃん?もう、在宅で見るには限界にきてんじゃねぇか」
お茶を注ぐ女性を眺めながらさっちゃんが尋ねた。湯呑みをさっちゃんの前へと置く女性が俯きながらぽつりと答える。
「ご近所や会社での体裁が悪いと……」
「体裁?ぎゃははっ!! てめぇの嫁が介護苦にして自殺した方がよっぽど体裁悪いじゃねぇか?馬鹿じゃねぇのか」
げらげらと笑いながら言うさっちゃんに、女性もふふふっと自虐的に笑う。そして、湯呑みを両手で包み込むようにして持つと、一口お茶を啜った。
「……私がそんな事考えてるなんて、あの人は少しも思ってもないでしょうから」
「だろうな。てめぇの母親押し付けて、自分は知らんぷりの奴だからなぁ、へっへっへっ」
「昔からです。義母と同居する時も私に相談もせず突然だったし……介護サービス断った時も……」
「別れちまいなよ。全部捨てて、老後は華の独身生活楽しめばいいじゃんよ?」
さっちゃんも湯呑みを掴みお茶を啜る。しかし、かなり熱かったのか、それともさっちゃんが猫舌だったのか、あちぃっと顔を顰めるそんなさっちゃんを見ていた女性が少しだけ笑った。
「……私は、全てを投げ出し一人で生きれる程、強い人間じゃないから」
寂しそうにそう呟く彼女に、はぁっと大きなため息を一つついたさっちゃん。そして女性の方へと顔を近づけた。
「強ぇって何だよ?誰も強くねぇよ、てめぇが思ってるような奴らなんていねぇよ。みんなよぉ、弱さの塊なんだ。そいつらとてめぇの違うところはよぉ、自分の弱さを見つめ、受け入れているところだぜ」
「自分の弱さを……受け入れる?」
「そうだよ。自分の弱さを受け入れて、できる事、できねぇ事を分かってるんだ。なんでもかんでも背負い込まねぇんだ、てめえみてぇによ。そんなことしてりゃ、超人だって、化け物だって潰れてしまうぜ?」
さっちゃんはそう言うと、また湯呑みを口まで運び飲もうとしたが、熱かったのを思い出し、お茶へふぅふぅと息を吹きかけ冷ましている。いい感じに冷めたのかぐびりとお茶を一口飲み喉が潤ったのか、話しを続けるさっちゃん。
「誰かに助けを求める……恥じゃねぇよ。当たり前の事だ。その当たり前ができるか、できねぇかなんだよ?てめぇはできねぇから死ぬんだ。てめぇでてめぇを追い詰め、死んじゃうんだ」
黙って俯き話しを聞いている女性を見ながら、ぼりぼりと頭を掻くさっちゃんは、また一つため息をついた。
「でもよ長ぇ間、てめぇの時間も精神も削ってよ、よく頑張ったじゃねぇか、辛かっだろうさ。もう死ねよ?死にてぇんだろ?死んで終わらせろ、そんな人生。全てを背負って、全てを投げ捨て左様なら……てよ。そしたら、みんな気づいてくれるぜ?やっとてめぇの方を見てくれるぜ?てめぇが背負いこんでた物によ、苦しんでいた事によぉ」
「……」
「まぁ、私がなんだかんだ言ってもよぉ、それを決めんのはてめぇしかできねぇんだけどな。死ぬのも生きるのてめぇの意思一つさ」
最後にそう言い女性の肩を優しく叩くと、俯いていた女性が顔を上げさっちゃんの目を見詰めた。
「てめぇの人生だぜ。私のじゃぁない。どうなろうと勝手だけどよ、てめぇだけのために過ごしたって良いと思うぜ?」
涙ぐみながら見詰める女性へにたりとした笑みを浮かべるさっちゃんの体が、段々と消えていく。肩に置かれたさっちゃんの手を握りしめる女性。
「……あなたは、神様か何かなの?」
「惜しいね。神様は神様でも死神様だぁ。死神さっちゃん。てめぇが生きる事を選んで寿命を全うした時は、そんときゃ私が迎えに来てやるぜ。楽しみにしとけ」
へっへっへっと笑い声だけを残し、消えてしまったさっちゃん。女性はしばらくもさっちゃんが手を乗せていた肩に触れていた。
それから、その女性がどうなったかなんて私には分からない。ただ、介護を苦にして自殺したというニュースはここ最近は見ていない。まぁ、もしかしたら、私がテレビを見ていない間に流れていたら別だけど。
そして、あの家から少し離れたところにある公園に、孫を連れたお婆さんの姿を良く見かけるようになった。つい最近引っ越してきたお婆さんらしい。熟年離婚し、趣味や孫の世話にと老後を楽しんでいるらしい。
とある介護施設に、セーラー服姿の少女がにたにたとした笑みを浮かべて、一部屋一部屋を覗いて回っている。
誰かの親族なのであろうか?
しかしこの時代、プライバシーの観念から、一部屋一部屋を覗き回るなんて出来やしないはずであるのに関わらず、誰も注意しない。まるで、その少女の事が誰にも見えないかの様に。
「まだまだ、仕事はたくさんあるぜ、へっへっへっ」
ある程度覗いて回った少女は満足そうににたりと笑い、そう言い残すと介護施設から人知れず出ていった。