恋する理由がありません~新人秘書の困惑~
 たしかに今はこの部屋に私たちふたりしかいないけれど、私としては公私のケジメをつけたい。
 プライベートでは恋人でも、会社では彼の秘書だ。そんなふうにきちんと線引きするのは変だろうか。
 明日の金曜の話を無視しなかっただけでも、私としては譲歩したつもりなのに。

「ここは会社です」

 なにも感情を乗せずにサラリと当たり前の言葉を返せば、副社長は参ったと言わんばかりに複雑な笑みを浮かべた。

「暑いから、なにかさっぱりしたものが食べたいかな」

 私はうなずきながら「考えておきます」と短く返事をして副社長室をあとにした。

 ケジメは大切だ。強く意識していなければ、ふたりとも会社で顔が緩んでしまうのではないかと不安になる。
 私が深沢部長に言う前に誰かに感づかれるのも困るし、恋人関係になったからといって、仕事をおろそかにはしたくない。

 そんな(こころざし)があるものの、深沢部長にこの関係を話せば、私は彼の秘書でいられなくなると思う。もしかしたら㈱アナナスに戻されるかもしれない。
 仕事の面だけで言えば、私の中で異動はたいしたことではない。

 だけど私は彼のそばにいたいのだ。
 別れなさい、と冷酷なことを告げられるかもと考えただけで、部長に言うのが怖くてずっと尻込みしてしまっている。こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。


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