おじさんには恋なんて出来ない
最終話 変わらぬ愛を。
失恋のショックは予想以上に重いものだった。
美夜はしばらくの間、食欲という食欲が落ちた。
バイトの間は立ちっぱなしになるため朝食としてランチパックを無理やり詰め込むが、二枚入りのうちの半分しか食べられなかった。
一日それだけしか食べない生活を一ヶ月ほど続けていると、体重が四キロも落ちた。不意に鏡を見て自分の足が異様に細いことに気がつき、ようやくやっと自分が痩せたことに気付いた。
しかしだからといって生活は変わらない。生きるためになんとか飲み込むのが食べ物で、そこに楽しみは見出せなくなっていた。
けれど一方で、外には毎日のように出掛けた。バイトが終われば街を徘徊した。そして、気が付くとピアノから離れていた。
弾くことはできる。知っている曲なら考えなくても指が動く。だが、そこにそれ以上《《なにか》》を込めることができない。弾いていると連鎖反応のように辰美を思い出した。
あの出来事から時間が経ち、美夜の周りは以前と比べ静かになった。風の噂も七十五日だ。美夜の災難は次第に人の記憶から消えていく。
そしてこの噂のように、辰美の心からも自分が消えている────それを受け止められるほど、美夜は成熟していなかった。
そんな腑抜けた生活を続けて半年ほど経った頃のことだった。
以前、一度田村オーナーからサポート依頼のあった女性アーティストの『響』から連絡が来た。
美夜は単身呼びだされ、待ち合わせのカフェに向かった。
響は美夜よりも三歳も年下の女性だ。やや内気で、歌っていない時は声が小さく、大人しい。ただ声を出せばそのイメージが覆るほど魅力的なハスキーボイスの持ち主だった。
響は端っこの席に座り、目深にグレーのニット帽をかぶっていた。目には太い黒縁眼鏡。それによく似合うボブカット。今時の若者だ。
「どうも、お久しぶりです」
ペコリと頭を下げた響は、まるで十代の少女のように見えた。近頃は若者から支持を集め、SNSではかなり有名な人物になった。この眼鏡と帽子はそのためだろうか。
「お久しぶりですね。ライブ以来、でしょうか」
「あ、はい」
「響さん、すごい人気にですね。ちょくちょく、動画拝見してます」
「ありがとうございます……なんとか、やってます。あの、今日はミヤさんに折り入ってご相談があるんですが」
「なんでしょう」
「実は今年、ツアーをやることになって。東京と大阪と福岡でライブやるんです。それで、あの……ミヤさんにまたサポートお願いできないかなと」
以前なら、喜んだことだった。だが、美夜は心から喜べなかった。
────辰美さんが聞いたら、きっと喜んでくれたのにな。
以前、響のサポートを頼まれた時、辰美がライブに来てくれた時のことを思い出した。
自分が主催するわけでもないのに、辰美は見に来てくれた。花をくれた。あの花はいまだに部屋に飾られている。
けれどもう、辰美はライブに来ないだろう。
「あの……どうでしょう」
ハッと我に帰る。響が窺うように見つめていた。
「……ありがとうございます。お引き受けします」
「良かった……。私あんまり頼める人いなくて、断られたらどうしようかと、思ってました」
「響さんなら一緒にやりたい人もたくさんいるんじゃないんですか」
「声は、よくかけられるんです。でも私がこんな感じなので、その……あんまりうまくいかなくて」
響は歌手にしては内向的な性格だ。それでもステージに立てば一変するが、リハーサルの時もなかなか意見を言おうとしない。いや、周りが年上ばかりだから遠慮しているのだろう。
だから歳が近い自分に頼みたかったのかもしれない。
「あの……ミヤさんのほうは、最近どうですか」
「ぼちぼち、ですかね。色々あって……ちょっと、悩んでます」
「もしかして……ブログに書いてたことですか」
響はブログを見たのだろうか。狭い世界だ。SNSでも繋がっているし、知ろうと思えば簡単に知ることができる。
恐らく周りは自分のことを不倫女だと思っているに違いない。それもあって、なかなか人に連絡を取りづらかった。
正直音楽業界には不倫以上にひどいことをしている人間がわんさかいるが、所詮そんなものは内輪の話だ。ファンは知らないし、公表されなければなんてことはない。
「なんて言ったらいいか……辛いですよね」
響は元々暗い瞳に一層影を落とした。
「私も、よく叩かれます。知らない人って、好きなように言いますから」
それは同情して言っているのだろうか。少なくとも、響は自分にまつわる噂を真に受けていないようだ。
「気にしないでください。ミヤさんのピアノすごいですし、ちゃんとみんな……分かってくれると思います」
────でも、辰美さんは離れた。
思い出すと薄っすら涙が滲んだ。もう辰美に聞いてもらえないのだと思うと、悲しくて仕方がない。
これからどれだけ頑張っても、辰美はそばにいないのだ。
「響さんは……もし大切な人に歌が届かなくなったら……どうしますか」
なぜ響にこんな質問をしてしまったのだろう。そこまで仲がいいわけでもないのに。響だって困っている。
「その人の耳がなくならない限りは、届くと思います。だって私が頑張れば、どこかで私の曲が流れるかもしれないし。テレビとか出たら、いやでも目に入りますから。嫌いにならない限りは……どこかで届くはずです」
その時、悲観的に考えていた心がスッと軽くなった。
別れたからもう辰美はピアノを聞いてくれない。二度と関わることはないのだと思っていた。
だが、自分が頑張ればまたどこかで、辰美にも届くだろうか。
「……そうですね」
辰美はこの街のどこかにいる。だから、ピアノを弾いていれば、きっといつかは届く。
美夜はしばらくの間、食欲という食欲が落ちた。
バイトの間は立ちっぱなしになるため朝食としてランチパックを無理やり詰め込むが、二枚入りのうちの半分しか食べられなかった。
一日それだけしか食べない生活を一ヶ月ほど続けていると、体重が四キロも落ちた。不意に鏡を見て自分の足が異様に細いことに気がつき、ようやくやっと自分が痩せたことに気付いた。
しかしだからといって生活は変わらない。生きるためになんとか飲み込むのが食べ物で、そこに楽しみは見出せなくなっていた。
けれど一方で、外には毎日のように出掛けた。バイトが終われば街を徘徊した。そして、気が付くとピアノから離れていた。
弾くことはできる。知っている曲なら考えなくても指が動く。だが、そこにそれ以上《《なにか》》を込めることができない。弾いていると連鎖反応のように辰美を思い出した。
あの出来事から時間が経ち、美夜の周りは以前と比べ静かになった。風の噂も七十五日だ。美夜の災難は次第に人の記憶から消えていく。
そしてこの噂のように、辰美の心からも自分が消えている────それを受け止められるほど、美夜は成熟していなかった。
そんな腑抜けた生活を続けて半年ほど経った頃のことだった。
以前、一度田村オーナーからサポート依頼のあった女性アーティストの『響』から連絡が来た。
美夜は単身呼びだされ、待ち合わせのカフェに向かった。
響は美夜よりも三歳も年下の女性だ。やや内気で、歌っていない時は声が小さく、大人しい。ただ声を出せばそのイメージが覆るほど魅力的なハスキーボイスの持ち主だった。
響は端っこの席に座り、目深にグレーのニット帽をかぶっていた。目には太い黒縁眼鏡。それによく似合うボブカット。今時の若者だ。
「どうも、お久しぶりです」
ペコリと頭を下げた響は、まるで十代の少女のように見えた。近頃は若者から支持を集め、SNSではかなり有名な人物になった。この眼鏡と帽子はそのためだろうか。
「お久しぶりですね。ライブ以来、でしょうか」
「あ、はい」
「響さん、すごい人気にですね。ちょくちょく、動画拝見してます」
「ありがとうございます……なんとか、やってます。あの、今日はミヤさんに折り入ってご相談があるんですが」
「なんでしょう」
「実は今年、ツアーをやることになって。東京と大阪と福岡でライブやるんです。それで、あの……ミヤさんにまたサポートお願いできないかなと」
以前なら、喜んだことだった。だが、美夜は心から喜べなかった。
────辰美さんが聞いたら、きっと喜んでくれたのにな。
以前、響のサポートを頼まれた時、辰美がライブに来てくれた時のことを思い出した。
自分が主催するわけでもないのに、辰美は見に来てくれた。花をくれた。あの花はいまだに部屋に飾られている。
けれどもう、辰美はライブに来ないだろう。
「あの……どうでしょう」
ハッと我に帰る。響が窺うように見つめていた。
「……ありがとうございます。お引き受けします」
「良かった……。私あんまり頼める人いなくて、断られたらどうしようかと、思ってました」
「響さんなら一緒にやりたい人もたくさんいるんじゃないんですか」
「声は、よくかけられるんです。でも私がこんな感じなので、その……あんまりうまくいかなくて」
響は歌手にしては内向的な性格だ。それでもステージに立てば一変するが、リハーサルの時もなかなか意見を言おうとしない。いや、周りが年上ばかりだから遠慮しているのだろう。
だから歳が近い自分に頼みたかったのかもしれない。
「あの……ミヤさんのほうは、最近どうですか」
「ぼちぼち、ですかね。色々あって……ちょっと、悩んでます」
「もしかして……ブログに書いてたことですか」
響はブログを見たのだろうか。狭い世界だ。SNSでも繋がっているし、知ろうと思えば簡単に知ることができる。
恐らく周りは自分のことを不倫女だと思っているに違いない。それもあって、なかなか人に連絡を取りづらかった。
正直音楽業界には不倫以上にひどいことをしている人間がわんさかいるが、所詮そんなものは内輪の話だ。ファンは知らないし、公表されなければなんてことはない。
「なんて言ったらいいか……辛いですよね」
響は元々暗い瞳に一層影を落とした。
「私も、よく叩かれます。知らない人って、好きなように言いますから」
それは同情して言っているのだろうか。少なくとも、響は自分にまつわる噂を真に受けていないようだ。
「気にしないでください。ミヤさんのピアノすごいですし、ちゃんとみんな……分かってくれると思います」
────でも、辰美さんは離れた。
思い出すと薄っすら涙が滲んだ。もう辰美に聞いてもらえないのだと思うと、悲しくて仕方がない。
これからどれだけ頑張っても、辰美はそばにいないのだ。
「響さんは……もし大切な人に歌が届かなくなったら……どうしますか」
なぜ響にこんな質問をしてしまったのだろう。そこまで仲がいいわけでもないのに。響だって困っている。
「その人の耳がなくならない限りは、届くと思います。だって私が頑張れば、どこかで私の曲が流れるかもしれないし。テレビとか出たら、いやでも目に入りますから。嫌いにならない限りは……どこかで届くはずです」
その時、悲観的に考えていた心がスッと軽くなった。
別れたからもう辰美はピアノを聞いてくれない。二度と関わることはないのだと思っていた。
だが、自分が頑張ればまたどこかで、辰美にも届くだろうか。
「……そうですね」
辰美はこの街のどこかにいる。だから、ピアノを弾いていれば、きっといつかは届く。