おじさんには恋なんて出来ない
 座って、と言われてもそれほど座る場所もなかったので、適当な植え込みの縁に座ることになった。

 美夜はまた、辰美が傷付くようなことを言うのではないかと気が気ではなかった。

「さっきは……すまなかった。君が受け取りたくないなら、それでいい。けど、俺は……」

「……私に声を掛けたのは、お金を渡すためなんですか」

「っ違う。そうじゃない!」

 隣から深いため息が聞こえた。辰美は手で顔を覆うようにして項垂れたあと、美夜の方を向いた。

「俺が君と別れたのは、これ以上君に傷付いてほしくなかったからだ。君の夢が俺のせいで台無しになるのは嫌だった。だから、別れようと言った。決めてたんだ。裁判のケリがつくまでは君に合わない。ちゃんと顔向けできるようになってから会いに行こうって」

 だから、六年間も会いに来なかったのだろうか。それだけ長い時間、辰美は一人で戦っていたのか。

 そう思うと、何もできなかった自分に腹が立つ。

「久しぶりに君のブログを見たんだ。それで、クリスマスにライブをするって書いてあって……」

「見に来たんですね」

 辰美は沈黙した。だが、その答えは既に知っている。

「嬉しかった。君は大きなホールで弾いてみたいと言っていたから……。それに、一番初めに弾いたあの曲は……以前、俺に聞かせてくれた曲だろう」

「辰美さんの、誕生日プレゼントに作った曲です。あれは、あなたしか知らない。あなたが来てくれてれば、気が付くと思って……」

「あの曲と、君の髪飾りを見て思った。美夜はまだ……もしかしたら……ずっと、同じ想いでいてくれているのかもしれないって。けど、勘違いしたくなかった。俺は君を振った立場で、簡単に声を掛けられなかった。もしかしたらあれは俺に対する嫌味かもしれないと思った」

「そんな嫌な人間じゃありません」

「分かってるよ」

 いつの間にか、辰美が敬語じゃなくなっていることに気が付いた。

 辰美は困ったような笑みを浮かべ、視線を落とす。

「君がどう思っているのか知りたかった。だから君がストリートしに行くって書いた記事を見て、会いに行った。そうしたら君はやっぱりあの曲を弾いていて……気が付いたら、声を掛けてたんだ」

 あの出会いは偶然ではなかったのだ。辰美は知っていて、会いに来た。

 そして自分も、辰美が会いに来てくれることを望んで弾いた。初めて出会った時のように────。

「未練がましいって分かってる。俺は君を悲しませた。会いに行く価値もない。けど……」

「怒ってません」

「けど、さっきは怒っていただろう」

「だって、辰美さんが酷いことを言うからです。私がどうしてあの曲を弾いてたか分かりますか? あなたに会いたいからです」

 辰美の顔が悲しそうに歪む。

「それなのにいざ会ったら、慰謝料がどうだとか、申し訳なかったとか、他人みたいに喋って。あんまりじゃないですか。あなただって花束贈ったり私に期待させるようなこと散々して……」

 ────私だって期待していたのに。

 ぼろぼろと溢れる涙を辰美の指が拭った。一瞬それすらも同情だと思ったが、辰美は真剣な顔をしていた。

「美夜。俺は歳をとったし、君にはもう相応しくないかもしれない。けど、あの頃と何も変わってない。君を誘ったのは……もう一度、君の恋人になりたかったからだ」

 しかしその後すぐ自嘲するような笑みを浮かべた。

「馬鹿だって分かってる。歳の差は埋められない。君は今や売れっ子ピアニストで、俺みたいなおじさんを相手にしてる場合じゃないだろう。恋人なんていくらでもできるだろうし────」

「辰美さん」

 美夜はそっと辰美の手を握った。

「私は歳をとったけど、変わりました。もし今誰かに咎められても、言い返せます。『そんなこと気にしてられるほど打算的な恋愛してませんから』って。それとも辰美さんはそんなこと気にする程度にしか私のこと好きじゃないって言うんですか」

「……君は、歳をとって少し悪い女になったな」

「図太くなったと言ってください」

「けど、俺も悪い男になったら大変だよ」

「どうしてですか?」

「今すぐ君にキスしたい」

 驚く美夜なんかお構いなしに、辰美は顔を寄せるとさっさと唇を奪っていった。

 こんなところでするなんて、と美夜は呆気に取られたまま放心していると、辰美はおかしそうにくすくすと笑う。

 悪い男になったら、なんて。既にそうではないか。

 困ったものだ。こんな辰美と一緒にいたら、心臓がいくつあっても足りない。

 相変わらず意地悪な顔で笑っている辰美を睨みながら、美夜はむくれた。

「じゃあ……勘違いじゃないんだな?」

「……ないですよ。言ったじゃないですか」

 変わらぬ愛を、って。
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