おじさんには恋なんて出来ない
「ちょっと、話をしようか」
辰美に手を引かれ、美夜はソファに腰を下ろした。真正面に置かれたテレビには横並びになったお互いが写っている。
「美夜、君はこれから俺とどうなっていきたい?」
────これは、別れ話だ。
目の前が真っ暗になったような気分だった。
やっぱり、ピアニストとの付き合いなんて現実的じゃないと思われたのだろうか。辰美のように仕事をバリバリこなす男性は女性には家にいて欲しいと思っているのだろうか。
自分だって構ってくれない男性は嫌だ。それなのに、されて嫌なことを人にしているのだから嫌われたって仕方ない。
六年前もフラれたのにまたフラれるなんて、自分には恋愛なんて向いていないんだろうか。辰美を幸せにするなんて、無理だったのだろうか。
「……辰美さんは、私と別れたいんですよね」
「え?」
それならいっそ、自分の方から別れを告げた方がいい。同じ男性に二度もフラれるなんて耐えられない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺がいつ別れたいなんて言ったんだ」
「え……別れたいんじゃないんですか」
「そんなわけないだろう!」
理解ができなくて美夜はきょとんとした。じゃあ、辰美は一体何が言いたいのだろう。
「俺が言いたいのは……その、つまり……」
辰美はなんだか言いづらそうに口をもごもごさせている。いつも余裕たっぷりな彼にしては、どこか困った顔だ。
「正直に言って欲しい。俺は君と結婚したい。君はどう思ってるんだ」
「け────」
結婚?
まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。あまりにも突然すぎて、返事が思い浮かばない。
しかし、辰美はそんな美夜の様子を見て「……そうだよな」と残念そうな表情を浮かべた。
「分かってる。俺は歳上すぎだ。結婚なんて、今更考えるべきじゃない」
「え……?」
「君がこのままがいいというならそれでいい。俺と結婚しても君にとってメリットがあるわけじゃないからな。その方が仕事もしやすいだろう」
「え……ちょ、ちょっと待ってください。辰美さん、私と……結婚しようと思ってたんですか」
「思っていたよ。じゃなきゃ、こんな歳で君に会いに行ったりしない」
分かっていた。付き合っていればいつかはそんな話も出るだろうし、このままの関係を続けるわけもない。
だが、考えもしなかった。それは多分、年が離れすぎていて実感が湧かなかったからだ。それに、辰美は一度結婚している。おまけに離婚して、裁判まで起こしている。そんな人が、トラウマの結婚を繰り返したいなんて思わないと、無意識に思っていた。
「……身の程知らずだって分かってる。俺は一度失敗してるから、君にも同じ不満を抱かせるかもしれない。でも、俺は君といたら、もっと幸せな結婚生活を送れたかもしれないと思ったんだ」
「辰美さん……」
「突然こんなことを聞いてすまなかった」
がっくりしている辰美を見ながら美夜はかなり遅れて衝撃を受けた。
辰美は真剣にそう思っていたのだろう。無論、遊びでないことは分かっていたが、再会してまだそれほど経っていないのに、そこまで考えていると思わなかったのだ。
だが辰美と自分の年齢を考えれば、早すぎるということはない。
「辰美さんは……私と結婚して、上手くやっていけると思うんですか……?」
「思うよ」
「だって……っ私ちゃんと家事もしないし、家のことほったらかしにします! きっと部屋にこもってピアノばかり弾いて、辰美さんのこと後回しにして……ガッカリ、させます……」
「そんなに気にすることじゃないよ」
「気にします! だって、私の両親はそれで……離婚したんですから」
あんなふうに辰美といがみあうなんて嫌だ。好きあって結婚したのに、嫌いになって別れてしまうなんて。
「君のご両親のことは残念だと思う。けど、俺達はそうならないように話し合えばいい」
「でも……」
「どうして結婚が失敗するか分かるか?」
美夜は考えたが分からなかった。結婚したことがない自分には難しい問いだ。
「相手を変えようとするからだ」
それは辰美が言うと重い言葉に聞こえた。シンプルなのに、重い。
思えば、辰美に何か要求されたことはあまりない。だが、それはして欲しいことがないわけではないのだ。辰美なりに見極めて口に出しているのだろう。
過度な要求は相手を疲れさせる。結婚したからといって相手が何もかも自分と同じになることはない。それを分かっているから、そうするのだ。
「だから、結婚は忍耐なんて言われるんだな。まあ、妻の要求に応えられなかった俺が言うセリフじゃないかもしれない」
「でも、私は……ちゃんとできる自信なんてありません」
「君は俺が喜ぶと思っていつも行動してくれる。俺も、できる限りそう努めてるつもりだ。思ったこともちゃんと言うし、俺もそれを聞く。そうしてれば君が怖がるような結末にはならないんじゃないかな」
自分より一回り大きな手が頬を撫でる。
「でも、君にその気がないなら仕方ないんだけど」と、悲しそうに言った。
「そんなこと、ないです。私もずっと……辰美さんと一緒にいたいと思います」
「俺は……きっと、確実に君より早く死ぬと思う。君が辛い時にそばにいられなくなる。あと何十年一緒にいられるか分からない。けど、その残り少ない人生を君と一緒にいたいんだ。たとえ君の背中ばかり見ることになってもね」
美夜は勝手に流れる涙を止めることが出来なかった。
幸せなはずのプロポーズに人生の最後についての言葉をいれたのは、辰美なりの優しさなのだ。
結婚は楽しいことばかりではない。若いうちは楽しいことばかり考えていても、終わりが近付くと結末への不安が増していく。
自分達には十八歳という歳の差がある。だから結婚に対する価値観も違う。いっときの感情で結婚して、自分を不幸にしたくない。
そしてそれと同じくらい、幸せにしたいから。だから辰美は、その言葉を選んだ────。
「それでもいいなら……君の残りの人生を、俺に預けてくれないか」
「……辰美さんは、ずるい。そんなこと言われたら、そばにいたくなるじゃないですか」
両手を広げ、辰美の体を抱き締める。
この体がいつか消えてしまうなんて、そんなの嫌だ。だけど、それは仕方のないこと。だからいつか来る終わりまで、辰美のそばにいたい。辰美をずっと守りたいと思った。
同じように抱きしめ返す辰美の肩に顔を埋め、美夜は静かに泣いた。
辰美に手を引かれ、美夜はソファに腰を下ろした。真正面に置かれたテレビには横並びになったお互いが写っている。
「美夜、君はこれから俺とどうなっていきたい?」
────これは、別れ話だ。
目の前が真っ暗になったような気分だった。
やっぱり、ピアニストとの付き合いなんて現実的じゃないと思われたのだろうか。辰美のように仕事をバリバリこなす男性は女性には家にいて欲しいと思っているのだろうか。
自分だって構ってくれない男性は嫌だ。それなのに、されて嫌なことを人にしているのだから嫌われたって仕方ない。
六年前もフラれたのにまたフラれるなんて、自分には恋愛なんて向いていないんだろうか。辰美を幸せにするなんて、無理だったのだろうか。
「……辰美さんは、私と別れたいんですよね」
「え?」
それならいっそ、自分の方から別れを告げた方がいい。同じ男性に二度もフラれるなんて耐えられない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺がいつ別れたいなんて言ったんだ」
「え……別れたいんじゃないんですか」
「そんなわけないだろう!」
理解ができなくて美夜はきょとんとした。じゃあ、辰美は一体何が言いたいのだろう。
「俺が言いたいのは……その、つまり……」
辰美はなんだか言いづらそうに口をもごもごさせている。いつも余裕たっぷりな彼にしては、どこか困った顔だ。
「正直に言って欲しい。俺は君と結婚したい。君はどう思ってるんだ」
「け────」
結婚?
まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。あまりにも突然すぎて、返事が思い浮かばない。
しかし、辰美はそんな美夜の様子を見て「……そうだよな」と残念そうな表情を浮かべた。
「分かってる。俺は歳上すぎだ。結婚なんて、今更考えるべきじゃない」
「え……?」
「君がこのままがいいというならそれでいい。俺と結婚しても君にとってメリットがあるわけじゃないからな。その方が仕事もしやすいだろう」
「え……ちょ、ちょっと待ってください。辰美さん、私と……結婚しようと思ってたんですか」
「思っていたよ。じゃなきゃ、こんな歳で君に会いに行ったりしない」
分かっていた。付き合っていればいつかはそんな話も出るだろうし、このままの関係を続けるわけもない。
だが、考えもしなかった。それは多分、年が離れすぎていて実感が湧かなかったからだ。それに、辰美は一度結婚している。おまけに離婚して、裁判まで起こしている。そんな人が、トラウマの結婚を繰り返したいなんて思わないと、無意識に思っていた。
「……身の程知らずだって分かってる。俺は一度失敗してるから、君にも同じ不満を抱かせるかもしれない。でも、俺は君といたら、もっと幸せな結婚生活を送れたかもしれないと思ったんだ」
「辰美さん……」
「突然こんなことを聞いてすまなかった」
がっくりしている辰美を見ながら美夜はかなり遅れて衝撃を受けた。
辰美は真剣にそう思っていたのだろう。無論、遊びでないことは分かっていたが、再会してまだそれほど経っていないのに、そこまで考えていると思わなかったのだ。
だが辰美と自分の年齢を考えれば、早すぎるということはない。
「辰美さんは……私と結婚して、上手くやっていけると思うんですか……?」
「思うよ」
「だって……っ私ちゃんと家事もしないし、家のことほったらかしにします! きっと部屋にこもってピアノばかり弾いて、辰美さんのこと後回しにして……ガッカリ、させます……」
「そんなに気にすることじゃないよ」
「気にします! だって、私の両親はそれで……離婚したんですから」
あんなふうに辰美といがみあうなんて嫌だ。好きあって結婚したのに、嫌いになって別れてしまうなんて。
「君のご両親のことは残念だと思う。けど、俺達はそうならないように話し合えばいい」
「でも……」
「どうして結婚が失敗するか分かるか?」
美夜は考えたが分からなかった。結婚したことがない自分には難しい問いだ。
「相手を変えようとするからだ」
それは辰美が言うと重い言葉に聞こえた。シンプルなのに、重い。
思えば、辰美に何か要求されたことはあまりない。だが、それはして欲しいことがないわけではないのだ。辰美なりに見極めて口に出しているのだろう。
過度な要求は相手を疲れさせる。結婚したからといって相手が何もかも自分と同じになることはない。それを分かっているから、そうするのだ。
「だから、結婚は忍耐なんて言われるんだな。まあ、妻の要求に応えられなかった俺が言うセリフじゃないかもしれない」
「でも、私は……ちゃんとできる自信なんてありません」
「君は俺が喜ぶと思っていつも行動してくれる。俺も、できる限りそう努めてるつもりだ。思ったこともちゃんと言うし、俺もそれを聞く。そうしてれば君が怖がるような結末にはならないんじゃないかな」
自分より一回り大きな手が頬を撫でる。
「でも、君にその気がないなら仕方ないんだけど」と、悲しそうに言った。
「そんなこと、ないです。私もずっと……辰美さんと一緒にいたいと思います」
「俺は……きっと、確実に君より早く死ぬと思う。君が辛い時にそばにいられなくなる。あと何十年一緒にいられるか分からない。けど、その残り少ない人生を君と一緒にいたいんだ。たとえ君の背中ばかり見ることになってもね」
美夜は勝手に流れる涙を止めることが出来なかった。
幸せなはずのプロポーズに人生の最後についての言葉をいれたのは、辰美なりの優しさなのだ。
結婚は楽しいことばかりではない。若いうちは楽しいことばかり考えていても、終わりが近付くと結末への不安が増していく。
自分達には十八歳という歳の差がある。だから結婚に対する価値観も違う。いっときの感情で結婚して、自分を不幸にしたくない。
そしてそれと同じくらい、幸せにしたいから。だから辰美は、その言葉を選んだ────。
「それでもいいなら……君の残りの人生を、俺に預けてくれないか」
「……辰美さんは、ずるい。そんなこと言われたら、そばにいたくなるじゃないですか」
両手を広げ、辰美の体を抱き締める。
この体がいつか消えてしまうなんて、そんなの嫌だ。だけど、それは仕方のないこと。だからいつか来る終わりまで、辰美のそばにいたい。辰美をずっと守りたいと思った。
同じように抱きしめ返す辰美の肩に顔を埋め、美夜は静かに泣いた。