おじさんには恋なんて出来ない
 あれからまだ数日だが、辰美からはなんの連絡もない。

 仕事をしているから忙しいのだろうと思って安易に考えていたが、そもそも、付き合うことの価値観は年齢によって違う。自分たちは十八も離れているのだから、恐らく想像以上に違うはずだ。

 そう思うと途端に不安が湧いてきた。楽しんでいたのは自分だけで、辰美が釣った魚に餌をやらないタイプだったら────。

 しょぼんとしながら片付けをしていた時だった。美夜のスマホが震えた。

 美夜は気にも留めなかった。それより辰美が帰ってしまったことがショックで、それどころではなかった。

 片付けを終えてピアノを背負った。ようやくスマホを確認した。

 通知を見た瞬間、美夜は目を見開いた。

「え!?」

 人目も憚らず声をあげてしまう。メッセージは辰美からだった。

『お疲れ様です。今日の演奏もとても素敵でした。声をかけようと思ったのですが、ファンの方もいるのでやめておきました。遅いので気をつけて帰ってください』

 なんてことだろう。こんなことならもっと早くにメッセージを見ておけば良かった。

 なんだか不安に駆られて辰美に電話を掛けた。一コール、二コール、三コール……。電車の中にいるのか、それとももう帰ったのか。なかなか電話は繋がらない。

 しばらく鳴って、もう切ろうかと思った時だった。ようやくコール音が途切れた。

『もしもし、日向です』

 スピーカーの向こうから辰美の声が聞こえた。思っていたより穏やかな声で、美夜はほっとした。

「あ、あの。美夜です。すみません、突然……」

 なんて言おう。言葉が出てこない。なんとなく確かめたくてつい電話を掛けてしまったが、考えてたくない事実に近づいてしまったら。そう思うと怖い。

『悪いね。ちょうど電車に乗っていて出るのが遅くなってしまったんだ。美夜さんは……もう帰ってるのか?』

 電話の向こうからホームの音が聞こえる。わざわざ途中下車したらしい。

「はい。あの……ごめんなさい。突然電話して。話せなかったので、その……」

『いや、俺もごめん。最初は話すつもりで行ったんだけど、なんだか普通に振る舞える自信がなくて……ファンの人達に知られるとまずいだろう? 黙って帰って済まなかった』

 辰美はなんだか気まずそうに言った。

 思いがけないセリフだ。あの辰美から聞けたと思うと、より意外性が増す。辰美でもそんなふうに思うことがあるのだ。いつも落ち着いていて穏やかだから、恋愛をしても変わらないのだと思っていた。

 けれど嬉しい誤算だ。そして、自分の考えの至らなさに呆れた。

 辰美は自分のことを心配してくれているのに、自分ときたら疑うようなことばかり考えていた。辰美相手だと自分が余計に子供っぽく思えてしまう。

「私こそすみませんでした。顔が見れただけでも嬉しいです。疲れてるのに来てくださってありがとうございます」

『美夜さん、週末……日曜は何か予定ある?』

 瞬間的に察した。これはデートの誘いだ。美夜は考える前に答えた。

「ないです。空いてます」

『そうか。じゃあもし良かったら、どこか出掛けないか』

「はい。是非」

『どこか行きたい所はある?』

 付き合って初めてのデートだ。どこがいいだろうか。辰美のことはあまり知らない。離婚したこと、趣味もうっすら知っている程度だ。それなら────。

「辰美さんの家に行ってみたいです」

『え? 家?』

「はい」

 ひょっとして、まだ踏み込まれたくなかっただろうか。何回かデートしてからの方がよかっただろうか。深い意味はない。ただ、辰美のことを知りたいだけだ。

 無難に映画や買い物と答えておけばよかっただろうか。辰美はなんだか戸惑っている様子だ。

『俺の家なんて何もないよ。普通のマンションだし……』

「あの、ご迷惑だったらいいんです。ただちょっと、辰美さんのことが知りたかっただけというか……」

 少しの間無言になった後、辰美は「分かった」と答えた。

『おもてなしできるようなものはないけど、それでもよかったら』

「いえ……なんだか無理を言ったみたいでごめんなさい」

『いや、来てくれて嬉しいよ。じゃあ、また連絡する』

「はい。おやすみなさい」

 通話が切れた途端、顔のニヤケが止まらなくなる。さっきまでの薄暗い気持ちはどこかへ消えていた。

 辰美が自分から誘ってくれたことが嬉しいかった。告白もデートも自分から言い出したことだから、心のどこかで辰美を疑っていたのかもしれない。押し切ってしまったから付き合っただけなのではないか、と。

 これからはもう少し落ち着いた行動をしよう。でないと誠実な辰美に失礼だ。
< 43 / 119 >

この作品をシェア

pagetop