おじさんには恋なんて出来ない
日曜日、美夜は朝のバイトを終えてそのまま電車に乗った。
駅から少し距離があるため、辰美が駅まで迎えに来てくれることになっていた。バイト先のコーヒーとケーキを手土産に、駅で待つこと数分。私服姿の辰美がやってきた。
「美夜さん、待たせてごめん」
「いえ、着いたばかりです」
「行こうか。ここから歩いて十分ぐらいのところなんだ」
二人は横に並んで歩道を歩いた。
横目でちらりと辰美の方を眺める。
辰美の私服はまだ見慣れないが、やっぱり素敵だと思った。四十を過ぎているのにおじさんっぽいところが一つもない。普段はスーツ姿だが、私服を着ているとデザイナー、ベンチャー企業の社長……そんなふうに見える。
「ん? どうしたんだ?」
「あ、いえ……辰美さんの私服っておしゃれだなと思って」
「そうかな。あんまり考えて買ってるわけじゃないんだよ。今着てるも職場の子が勧めてくれたブランドを適当に買ってるだけだから」
「そうなんですか? すごく似合ってますよ」
「君に言われると照れるな」
お世辞ではない。同年代でも格好いい男はそれなりにいるが、チャラチャラしていて落ち着きがない。
辰美は自分のことをおじさんだと言うが、落ち着きがあって頼り甲斐があるところは魅力的だ。自分は案外、歳上の方が好みなのかもしれない。
しばらく歩くと、辰美が前方にあるマンションを指差した。
分譲マンションだろうか。明るい石造の外観で、エントランスはかなり広い。明らかに一人暮らし用ではなかった。
────そういえば、辰美さんって離婚してたんだった。ってことはこのマンションに奥さんと住んでたってことだよね。
離婚した話は聞いたが、こんなマンションを買うぐらいだ。子供がいるのかもしれない。
だが、人を招くということは子供は母親側が引き取ったのかもしれない。いろんなことを想像してしまう。
中に入るとエントランスがあって、その横にはソファが並べられていた。美夜は単身者用のマンションに住んでいるためいちいち豪華さに驚いた。コンシェルジュもいるし、きっと高いマンションなのだろう。
辰美の部屋はマンションの中層階にあった。部屋の中は思った通り綺麗だ。整理整頓されていて、物が少ない。落ち着いた色の家具に照明。辰美のイメージにぴったりだ。
「広い部屋ですね。私の家とは大違いです」
「一応2LDKはあるからね」
一つの部屋は扉が空いていた。中を覗くとパソコンに机が置いてあった。どうやら仕事部屋らしい。もう一つの部屋は扉が閉まっていた。
「こっちの部屋は────」
「そこは駄目だ」
強い口調が美夜の動きを止めた。美也は弾かれたように振り返る。なんだか怖い顔をした辰美がそこにいた。
深い意味はなかったが、あまり部屋の中をジロジロ見られるのは嫌だっただろうか。
「あ……ごめんなさい。ジロジロ見てしまって……」
「……いや。違う。そういうんじゃないんだ。ただ……」
辰美はなんだか言いづらそうに語尾を濁した。
「……やっぱり、突然家に行ってみたいなんて、ご迷惑でしたよね」
「違う。迷惑なんかじゃない。ただその……この家は別れた妻と住んでいた家だから、君が不愉快にならないかと……」
「そんなこと気にしません。もちろん、気にならないと言ったら嘘になりますけど……辰美さんのことが知りたいから来たんです」
安心させるようにいうと、辰美はようやく安心した顔をした。
思っていたより、この家には「元妻」の名残はない。辰美が捨てたのか、それとも元からなのかは分からないが、だから何も感じなかった。
ただ、気にはなった。辰美がどうして元妻と別れたのか。
辰美は特別目立った粗がない、気立ての優しい男だ。離婚になるような性格には見えなかった。
この家に一人で暮らしているということは、元妻が出て行ったのだろう。元妻が愛想を尽かしたのだろうか。それとも辰美が出て行けといったのか。
「あの……聞いてもいいですか。どうして離婚したのか……」
辰美はまた表情を変えた。不安そうな顔だ。いや、顔色が悪いと言った方が正しいだろうか。
離婚の原因なんて言いたくないかもしれない。ただ、この先付き合いを続けていくなら知っておいた方がいいと思った。
ややあって、辰美は重い口を開いた。
「……君と会う少し前に、離婚したと言っただろう」
美夜は頷いた。
「そこはベッドルームだ。仕事から帰ったら、その部屋で妻が浮気していた」
「え!?」
美夜は思わず閉まっている扉の方を見た。
まるで昼ドラのような状況だ。浮気された経験はないが、ネットやドラマで見たことがあるため容易に想像できた。
そしてそんな場所に遭遇してしまったその時の辰美の心境も。
辰美の顔は見たことがないくらい暗かった。そんなシーン、見たらトラウマになるに決まっている。
「それで離婚した。色々大変だったけど、子供がいなかったからわりとすんなりできた方だと思う。……すまない。こんな話してしまって」
「どうして辰美さんが謝るんですか。私こそ……何も考えずに聞いてごめんなさい」
「いや……いいんだ。いつかは言おうと思ってたことだったから。ただ、離婚なんて言うと印象がよくないだろう。君も不愉快になるんじゃないかと思って……」
「何言ってるんですか。辰美さんが気負う必要なんてありません。悪いのは奥さんじゃないですか」
「彼女一人が悪いわけじゃないんだ。俺に原因があったから妻も嫌になったんだろう。俺がちゃんとしていれば浮気なんかしなかったはずだ」
「理由があったら浮気してもいいんですか。寂しければ浮気してもいいんですか。そんなの不誠実です」
美夜は見たこともない辰美の元妻に怒りが湧いた。
浮気をしたことがないからわからないが、仮に辰美に原因があったとしても、それを話し合って解決していくのが夫婦だ。それを放棄して他の男に走るなんて、最悪だ。
辰美は自分と初めて会った時落ち込んでいたと言っていたが、あれは妻が男と浮気しているシーンを見たからなのだ。あの時の辰美は傷付いていた。
「ありがとう……俺のために怒ってくれて」
「いえ……他人の私が言うことじゃなかったです。すみません……」
「……だから、この部屋には近付きたくないんだ。引っ越せばいいんだけど、仕事が忙しくてなかなか進まなくてね。離婚してから何ヶ月も経つのに女々しい話さ」
「え、じゃあ辰美さん今どこで寝てるんですか?」
「そこのソファで寝てるよ」
辰美はリビングに置かれたソファを指さした。
「だ、駄目ですそんなの! 体壊しちゃいますよ」
「うちのソファは寝心地がいいから意外と寝やすいんだよ。でもまあ、そうだな。引っ越して早くベッドを買い替えないと」
「ベッド、買い替えましょう。私もついていきます」
そういうと、辰美はなんだか驚いたような顔をした。
美夜は慌てて取り繕った。
「あ、えっと……そういう意味じゃないんです。私別に────」
「分かってるよ」
辰美はようやく笑ったが、恥ずかしい思いをしたせいで妙なことを考えてしまう。
ベッドのことは別にやらしい意味ではないが、よくよく考えてみれば自分と辰美は大人なのだからそういうこともあるわけだ。全然想像していなかったわけではないが、なんだか身構えてしまう。
「そ、そういえば。朝バイト先でコーヒーとケーキを買ったんです。食べませんか」
「ああ、そうだね。俺も色々買ってきたから一緒に食べよう」
辰美はちっとも気にしていない様子だ。これが大人の余裕だろうか。男性経験がないわけではないが、辰美相手だといろいろなことを考えさせられる。
だが、不愉快ではなかった。辰美が教えてくれるあたらしい世界は楽しかった。一緒にいて落ち着くし、余計なことを考えなくてもいい。
知れば知るほど辰美は素敵な男性だった。
駅から少し距離があるため、辰美が駅まで迎えに来てくれることになっていた。バイト先のコーヒーとケーキを手土産に、駅で待つこと数分。私服姿の辰美がやってきた。
「美夜さん、待たせてごめん」
「いえ、着いたばかりです」
「行こうか。ここから歩いて十分ぐらいのところなんだ」
二人は横に並んで歩道を歩いた。
横目でちらりと辰美の方を眺める。
辰美の私服はまだ見慣れないが、やっぱり素敵だと思った。四十を過ぎているのにおじさんっぽいところが一つもない。普段はスーツ姿だが、私服を着ているとデザイナー、ベンチャー企業の社長……そんなふうに見える。
「ん? どうしたんだ?」
「あ、いえ……辰美さんの私服っておしゃれだなと思って」
「そうかな。あんまり考えて買ってるわけじゃないんだよ。今着てるも職場の子が勧めてくれたブランドを適当に買ってるだけだから」
「そうなんですか? すごく似合ってますよ」
「君に言われると照れるな」
お世辞ではない。同年代でも格好いい男はそれなりにいるが、チャラチャラしていて落ち着きがない。
辰美は自分のことをおじさんだと言うが、落ち着きがあって頼り甲斐があるところは魅力的だ。自分は案外、歳上の方が好みなのかもしれない。
しばらく歩くと、辰美が前方にあるマンションを指差した。
分譲マンションだろうか。明るい石造の外観で、エントランスはかなり広い。明らかに一人暮らし用ではなかった。
────そういえば、辰美さんって離婚してたんだった。ってことはこのマンションに奥さんと住んでたってことだよね。
離婚した話は聞いたが、こんなマンションを買うぐらいだ。子供がいるのかもしれない。
だが、人を招くということは子供は母親側が引き取ったのかもしれない。いろんなことを想像してしまう。
中に入るとエントランスがあって、その横にはソファが並べられていた。美夜は単身者用のマンションに住んでいるためいちいち豪華さに驚いた。コンシェルジュもいるし、きっと高いマンションなのだろう。
辰美の部屋はマンションの中層階にあった。部屋の中は思った通り綺麗だ。整理整頓されていて、物が少ない。落ち着いた色の家具に照明。辰美のイメージにぴったりだ。
「広い部屋ですね。私の家とは大違いです」
「一応2LDKはあるからね」
一つの部屋は扉が空いていた。中を覗くとパソコンに机が置いてあった。どうやら仕事部屋らしい。もう一つの部屋は扉が閉まっていた。
「こっちの部屋は────」
「そこは駄目だ」
強い口調が美夜の動きを止めた。美也は弾かれたように振り返る。なんだか怖い顔をした辰美がそこにいた。
深い意味はなかったが、あまり部屋の中をジロジロ見られるのは嫌だっただろうか。
「あ……ごめんなさい。ジロジロ見てしまって……」
「……いや。違う。そういうんじゃないんだ。ただ……」
辰美はなんだか言いづらそうに語尾を濁した。
「……やっぱり、突然家に行ってみたいなんて、ご迷惑でしたよね」
「違う。迷惑なんかじゃない。ただその……この家は別れた妻と住んでいた家だから、君が不愉快にならないかと……」
「そんなこと気にしません。もちろん、気にならないと言ったら嘘になりますけど……辰美さんのことが知りたいから来たんです」
安心させるようにいうと、辰美はようやく安心した顔をした。
思っていたより、この家には「元妻」の名残はない。辰美が捨てたのか、それとも元からなのかは分からないが、だから何も感じなかった。
ただ、気にはなった。辰美がどうして元妻と別れたのか。
辰美は特別目立った粗がない、気立ての優しい男だ。離婚になるような性格には見えなかった。
この家に一人で暮らしているということは、元妻が出て行ったのだろう。元妻が愛想を尽かしたのだろうか。それとも辰美が出て行けといったのか。
「あの……聞いてもいいですか。どうして離婚したのか……」
辰美はまた表情を変えた。不安そうな顔だ。いや、顔色が悪いと言った方が正しいだろうか。
離婚の原因なんて言いたくないかもしれない。ただ、この先付き合いを続けていくなら知っておいた方がいいと思った。
ややあって、辰美は重い口を開いた。
「……君と会う少し前に、離婚したと言っただろう」
美夜は頷いた。
「そこはベッドルームだ。仕事から帰ったら、その部屋で妻が浮気していた」
「え!?」
美夜は思わず閉まっている扉の方を見た。
まるで昼ドラのような状況だ。浮気された経験はないが、ネットやドラマで見たことがあるため容易に想像できた。
そしてそんな場所に遭遇してしまったその時の辰美の心境も。
辰美の顔は見たことがないくらい暗かった。そんなシーン、見たらトラウマになるに決まっている。
「それで離婚した。色々大変だったけど、子供がいなかったからわりとすんなりできた方だと思う。……すまない。こんな話してしまって」
「どうして辰美さんが謝るんですか。私こそ……何も考えずに聞いてごめんなさい」
「いや……いいんだ。いつかは言おうと思ってたことだったから。ただ、離婚なんて言うと印象がよくないだろう。君も不愉快になるんじゃないかと思って……」
「何言ってるんですか。辰美さんが気負う必要なんてありません。悪いのは奥さんじゃないですか」
「彼女一人が悪いわけじゃないんだ。俺に原因があったから妻も嫌になったんだろう。俺がちゃんとしていれば浮気なんかしなかったはずだ」
「理由があったら浮気してもいいんですか。寂しければ浮気してもいいんですか。そんなの不誠実です」
美夜は見たこともない辰美の元妻に怒りが湧いた。
浮気をしたことがないからわからないが、仮に辰美に原因があったとしても、それを話し合って解決していくのが夫婦だ。それを放棄して他の男に走るなんて、最悪だ。
辰美は自分と初めて会った時落ち込んでいたと言っていたが、あれは妻が男と浮気しているシーンを見たからなのだ。あの時の辰美は傷付いていた。
「ありがとう……俺のために怒ってくれて」
「いえ……他人の私が言うことじゃなかったです。すみません……」
「……だから、この部屋には近付きたくないんだ。引っ越せばいいんだけど、仕事が忙しくてなかなか進まなくてね。離婚してから何ヶ月も経つのに女々しい話さ」
「え、じゃあ辰美さん今どこで寝てるんですか?」
「そこのソファで寝てるよ」
辰美はリビングに置かれたソファを指さした。
「だ、駄目ですそんなの! 体壊しちゃいますよ」
「うちのソファは寝心地がいいから意外と寝やすいんだよ。でもまあ、そうだな。引っ越して早くベッドを買い替えないと」
「ベッド、買い替えましょう。私もついていきます」
そういうと、辰美はなんだか驚いたような顔をした。
美夜は慌てて取り繕った。
「あ、えっと……そういう意味じゃないんです。私別に────」
「分かってるよ」
辰美はようやく笑ったが、恥ずかしい思いをしたせいで妙なことを考えてしまう。
ベッドのことは別にやらしい意味ではないが、よくよく考えてみれば自分と辰美は大人なのだからそういうこともあるわけだ。全然想像していなかったわけではないが、なんだか身構えてしまう。
「そ、そういえば。朝バイト先でコーヒーとケーキを買ったんです。食べませんか」
「ああ、そうだね。俺も色々買ってきたから一緒に食べよう」
辰美はちっとも気にしていない様子だ。これが大人の余裕だろうか。男性経験がないわけではないが、辰美相手だといろいろなことを考えさせられる。
だが、不愉快ではなかった。辰美が教えてくれるあたらしい世界は楽しかった。一緒にいて落ち着くし、余計なことを考えなくてもいい。
知れば知るほど辰美は素敵な男性だった。