おじさんには恋なんて出来ない
食洗機の大きな音に紛れ、美夜はため息をついた。ゴウンゴウンと音を立てながら食洗機が回っている。これだけ大きい音なら、多少のため息は聞こえないはずだ。
そのままカウンターの方に戻る。接客業だから暗い顔はできない。
なんとか笑顔を浮かべてみるものの、表情筋はすぐに怠けた。
時刻は九時を回った。モーニングの時間はまだ続いているが、辰美は来ないだろう。今頃出勤しているはずだ。けれど何かを期待して店の入り口を見てしまう。
「顔、暗いよ」
品出しをしていた詩音がふと、こちらを見る。美夜は思わず自分の頬を触った。
「まだ話できてないんでしょ。もしくは、事態が悪化した」
鋭い。大当たりだ。返事せずにいると、今度は詩音の方が溜息をついた。
「今度は何があったんですかね、お嬢さん」
詩音はショーケースにケーキを補充しながら尋ねた。
「……辰美さん、部下の女の人に誘惑されてるみたいなの」
「は?」
詩音はトングにスコーンを持ったまま、さも理解できないとでも言いたげに美夜の方を見た。
誘惑というと語弊があるだろうか。だが、なんとも思ってない人間にあんなふうに誘うだろうか。
あのメールだけで判断するのは時期尚早かもしれない。けれど、有野と辰美がやりとりしていたことが嫌なのだ。多分。辰美が他の女性に誘われていたという事実が。
────辰美さん、有野さんのことなんて思ってるんだろう。
────あのメールにどんな返事をしたの?
────やっぱり私みたいなのじゃ釣り合わない?
じわりと瞳に涙が滲む。こんなところで泣きそうになるなんてどうかしてる。
「ちょ、ちょっと! 泣かないで! よし分かった! バイト終わったら話聞くから! ね、お茶でもしながら話そ!」
詩音が背中を撫でる。美夜はごめんと謝って目に溜まった涙を拭った。
あのメールを見てからというものの、涙腺がおかしくなっている。情緒不安定だ。
仕事も増えて来たしSNSのフォロワーも増えてきた。なのにどうして、辰美のことだけうまくいかないのだろう。
バイトが終わったあと、詩音と近くのカフェに入った。ちょうどお昼前だが、まだ時間が早いためか席も空いていた。
二人でランチセットとデザートを頼む。長居する気満々だ。
「それで、何があったの?」
美夜は先日起こった出来事を一つ一つ話した。いや、自分が起こした、というべきだろうか。
途中でランチセットが運ばれて来たものの、美夜はなかなか箸が進まない。ちみちみ食べながら恨言のように詩音に話を聞いてもらった。
「なるほどねえ……」
むしゃ、とサラダを飲み込む。詩音は探偵のように顎に手を当てた。
「浮気の事実はないけれど、美夜ちゃんはイケオジとその部下の女がやりとりをしているのが嫌だと」
「……平たく言えば」
「嫌だって言ったら?」
「そんなの言えないよ」
「なんで? だって彼氏じゃん。ライブだって別にわざわざ二人で来る必要ないんだし。美夜ちゃんはその女の人が嫌なんでしょ?」
「嫌っていうか……多分、辰美さんのこと好きなんだと思う……」
「その事実にイケオジは気付いてる?」
美夜は首を横に振った。
多分、辰美はなんとも思っていない。だから平然としているのだと思う。勝手な想像だが、辰美は部下に慕われていそうだし、あの性格だから部下の面倒を見ているだけのつもりなのだろう。だから余計に言い出しづらいのだ。
「美夜ちゃんが言い出しづらい気持ちもわかるけどさ、歳上だからって立場が上じゃないんだよ。お互い思ってること言わないと仲も進展しないし、この先やっていけないよ」
「うん……」
「見た感じ穏やかそうな人だし、怒り出すことはないんじゃない? 正直に言ってみたら? ヤキモチ妬いてますって。可愛く言ったら許してくれるって」
────そう。これはヤキモチだ。
自分がなぜあの女性が羨ましいのか、なんとなく分かってきた。
自分と辰美は隠れてこそこそ付き合わなければならないのに、ああして堂々と二人で歩ける有野が羨ましいのだ。
自分よりずっとずっと辰美のことを知っている有野が羨ましい。
笑い合っている二人がなんだか気心知れてている関係に見えて羨ましい。
自分と辰美だって仲はいい。うまくやっていると思う。
けれど時々、辰美の態度に寂しさを感じるのだ。辰美は優しいし、いつも穏やかで、感情を荒立てることはほとんどない。それはいいことなのだろうが────。
それがなんだか心を閉ざしているように見えてしまう。
辰美の考えていることを知りたいのに、彼はいつも穏やかに微笑むだけだ。気遣って、迷惑をかけまい、心配させまい、そんな優しさは伝わってくるが、距離を置かれているように感じてしまう。
だから、当たり前みたいに笑い合っている有野が羨ましくて、不安になる。
付き合っていると言えればどれだけ楽か分からないが、きっとお互いのためにならない。辰美は自分のことを考え、自分は辰美のことを考え、前に進めない。付き合っているのに線引きしているのだ。
けれど話せなければ変わらない。辰美のことを知りたい────。
「……ありがとう。詩音ちゃん」
「ちょっとは元気出た?」
「うん。ごめんね、めそめそしちゃって」
「なんのなんの。これぐらい朝飯前よ」
「もうお昼だよ」
ふふ、と二人で笑った。詩音のいうとおりだ。このまま考えていても仕方ない。辰美はきっと話せば聞いてくれるし、本音を言ってくれるはずだ。
すっかり冷めてたランチを食べきり、二人は店を出た。今日は特に予定もないが、家に帰って練習しようと思った。
「付き合ってくれてありがとう。詩音ちゃんはもう帰る?」
「うん。帰って寝ようかな。昨日徹夜しちゃって」
「そっか。ごめんね」
二人で駅に向かった。カフェを出てすぐの横断歩道で喋りながら信号を待つ。歩道の赤信号が青に変わった。足を踏み出そうとした時だった。
「うわあっ」、と誰かの声が聞こえた。美夜は慌てて振り返ったが、それと同時に体に衝撃を感じた。
何が起こったのだろう。一瞬のことでよく分からなかった。気がつくと自分の体は地面に倒れていた。
詩音の叫び声が聞こえた。
そのままカウンターの方に戻る。接客業だから暗い顔はできない。
なんとか笑顔を浮かべてみるものの、表情筋はすぐに怠けた。
時刻は九時を回った。モーニングの時間はまだ続いているが、辰美は来ないだろう。今頃出勤しているはずだ。けれど何かを期待して店の入り口を見てしまう。
「顔、暗いよ」
品出しをしていた詩音がふと、こちらを見る。美夜は思わず自分の頬を触った。
「まだ話できてないんでしょ。もしくは、事態が悪化した」
鋭い。大当たりだ。返事せずにいると、今度は詩音の方が溜息をついた。
「今度は何があったんですかね、お嬢さん」
詩音はショーケースにケーキを補充しながら尋ねた。
「……辰美さん、部下の女の人に誘惑されてるみたいなの」
「は?」
詩音はトングにスコーンを持ったまま、さも理解できないとでも言いたげに美夜の方を見た。
誘惑というと語弊があるだろうか。だが、なんとも思ってない人間にあんなふうに誘うだろうか。
あのメールだけで判断するのは時期尚早かもしれない。けれど、有野と辰美がやりとりしていたことが嫌なのだ。多分。辰美が他の女性に誘われていたという事実が。
────辰美さん、有野さんのことなんて思ってるんだろう。
────あのメールにどんな返事をしたの?
────やっぱり私みたいなのじゃ釣り合わない?
じわりと瞳に涙が滲む。こんなところで泣きそうになるなんてどうかしてる。
「ちょ、ちょっと! 泣かないで! よし分かった! バイト終わったら話聞くから! ね、お茶でもしながら話そ!」
詩音が背中を撫でる。美夜はごめんと謝って目に溜まった涙を拭った。
あのメールを見てからというものの、涙腺がおかしくなっている。情緒不安定だ。
仕事も増えて来たしSNSのフォロワーも増えてきた。なのにどうして、辰美のことだけうまくいかないのだろう。
バイトが終わったあと、詩音と近くのカフェに入った。ちょうどお昼前だが、まだ時間が早いためか席も空いていた。
二人でランチセットとデザートを頼む。長居する気満々だ。
「それで、何があったの?」
美夜は先日起こった出来事を一つ一つ話した。いや、自分が起こした、というべきだろうか。
途中でランチセットが運ばれて来たものの、美夜はなかなか箸が進まない。ちみちみ食べながら恨言のように詩音に話を聞いてもらった。
「なるほどねえ……」
むしゃ、とサラダを飲み込む。詩音は探偵のように顎に手を当てた。
「浮気の事実はないけれど、美夜ちゃんはイケオジとその部下の女がやりとりをしているのが嫌だと」
「……平たく言えば」
「嫌だって言ったら?」
「そんなの言えないよ」
「なんで? だって彼氏じゃん。ライブだって別にわざわざ二人で来る必要ないんだし。美夜ちゃんはその女の人が嫌なんでしょ?」
「嫌っていうか……多分、辰美さんのこと好きなんだと思う……」
「その事実にイケオジは気付いてる?」
美夜は首を横に振った。
多分、辰美はなんとも思っていない。だから平然としているのだと思う。勝手な想像だが、辰美は部下に慕われていそうだし、あの性格だから部下の面倒を見ているだけのつもりなのだろう。だから余計に言い出しづらいのだ。
「美夜ちゃんが言い出しづらい気持ちもわかるけどさ、歳上だからって立場が上じゃないんだよ。お互い思ってること言わないと仲も進展しないし、この先やっていけないよ」
「うん……」
「見た感じ穏やかそうな人だし、怒り出すことはないんじゃない? 正直に言ってみたら? ヤキモチ妬いてますって。可愛く言ったら許してくれるって」
────そう。これはヤキモチだ。
自分がなぜあの女性が羨ましいのか、なんとなく分かってきた。
自分と辰美は隠れてこそこそ付き合わなければならないのに、ああして堂々と二人で歩ける有野が羨ましいのだ。
自分よりずっとずっと辰美のことを知っている有野が羨ましい。
笑い合っている二人がなんだか気心知れてている関係に見えて羨ましい。
自分と辰美だって仲はいい。うまくやっていると思う。
けれど時々、辰美の態度に寂しさを感じるのだ。辰美は優しいし、いつも穏やかで、感情を荒立てることはほとんどない。それはいいことなのだろうが────。
それがなんだか心を閉ざしているように見えてしまう。
辰美の考えていることを知りたいのに、彼はいつも穏やかに微笑むだけだ。気遣って、迷惑をかけまい、心配させまい、そんな優しさは伝わってくるが、距離を置かれているように感じてしまう。
だから、当たり前みたいに笑い合っている有野が羨ましくて、不安になる。
付き合っていると言えればどれだけ楽か分からないが、きっとお互いのためにならない。辰美は自分のことを考え、自分は辰美のことを考え、前に進めない。付き合っているのに線引きしているのだ。
けれど話せなければ変わらない。辰美のことを知りたい────。
「……ありがとう。詩音ちゃん」
「ちょっとは元気出た?」
「うん。ごめんね、めそめそしちゃって」
「なんのなんの。これぐらい朝飯前よ」
「もうお昼だよ」
ふふ、と二人で笑った。詩音のいうとおりだ。このまま考えていても仕方ない。辰美はきっと話せば聞いてくれるし、本音を言ってくれるはずだ。
すっかり冷めてたランチを食べきり、二人は店を出た。今日は特に予定もないが、家に帰って練習しようと思った。
「付き合ってくれてありがとう。詩音ちゃんはもう帰る?」
「うん。帰って寝ようかな。昨日徹夜しちゃって」
「そっか。ごめんね」
二人で駅に向かった。カフェを出てすぐの横断歩道で喋りながら信号を待つ。歩道の赤信号が青に変わった。足を踏み出そうとした時だった。
「うわあっ」、と誰かの声が聞こえた。美夜は慌てて振り返ったが、それと同時に体に衝撃を感じた。
何が起こったのだろう。一瞬のことでよく分からなかった。気がつくと自分の体は地面に倒れていた。
詩音の叫び声が聞こえた。