おじさんには恋なんて出来ない
 時計の針が十二時に差し掛かろうとしていた。オフィス中がソワソワし始める時間だ。辰美は進めていた資料を一旦保存して、缶コーヒーに口をつけた。

 ふっと、とデスクの上に置いたスマホに視線をやる。電源ボタンを押してみるが、ただ待受の画像が表示されただけだ。

 美夜から何か返事がないかと思って何度も見ているが、まだ返事は来そうにない。こんなに長いこと彼女から連絡がないのは初めてのことで、辰美は自分でもどうしたらいいか分からなかった。

 視線を戻したその時だった。

 不意に辰美のスマホが震えた。デスクの上で振動するそれを、辰美は慌てて確認する。

 ────美夜だ!

 画面には『香坂美夜』の文字が表示されていた。彼女からの電話だ。

 珍しいことだった。美夜とやりとりはほとんどメッセージで行っている。電話で話すのは急ぎの時か、確実に家に帰っているとわかる時だけだ。

 今は仕事中だが、なぜだかその電話を取らなければならないような気がした。

「……はい、日向です」

 恐る恐る電話に出る。

『もしもし?』

 スピーカーの向こうから聞こえて来たのは美夜の声ではなかった。聞き覚えのない女性の声だ。

「もしもし? どちら様ですか?」 

『あの、私美夜の友達です。すみません、今美夜のスマホを借りて電話してるんですけど……』

 電話の向こうの女性はどこか慌てた様子だ。なぜ美夜の友人が彼女のスマホで電話をしてくるのか分からなかった。

『美夜が……さっき事故に遭って』

「ええっ!?」

 辰美は思わず席から立ち上がった。

「ど、どういうことですか!? 今どこに……っ」

『バイトが終わった後、交差点でバイクにぶつかって……それで、今大北総合病院にいて────』

 頭が真っ白になった。美夜が事故? 彼女は無事なのか?

 いてもたってもいられなくておろおろしながら机の後ろを歩き回る。電話の向こうの女性が決定的な一言を言わないものだから、不安が更に増していく。

 もし美夜が生死を彷徨うような状態だったら? そんなことは耐えられない。

「すぐ向かいます!」

 辰美は電話の電源ボタンを押して慌てて荷物をまとめ始めた。突然慌て始めた辰美に周りは驚いてざわついているが、そんなこと気にかけてられなかった。

「か、課長? どうかしたんですか」

 有野が心配げに声を掛ける。辰美は荷物をまとめると、早口に言った。

「すまない。俺の────家族が事故に遭った。悪いが早退する」

「ええっ」

 何かあったら電話をくれ! と叫びながらオフィスを出た。

 辰美は会社を出るとすぐにタクシーを拾った。病院の名前を告げ、美夜のスマホにまた電話を掛ける。

 だが、電話は繋がらない。しばらくして留守番電話に変わってしまった。

 ────美夜。頼む、無事でいてくれ……。

 こんなことならもっと早くに会いに行っておけばよかった。あの夜も、彼女を追いかけていくべきだった。プライドがどうとか歳上がどうとか考える暇があったら言いたいことを言うべきだったのだ。

 どうしていつも、後悔ばかりしてしまうのだろう。大切な人がいなくなってからでは遅いのに。
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