おじさんには恋なんて出来ない
 ────いつからだ? 

 自分がこういう生き方になったのは。多分、もっと前からだ。

 別に悪気があったわけじゃない。ただの処世術のようなものだ。

 人を気遣えば周りは笑ったし、穏やかでいれば周りもそうなる。いつもニュートラルな状態で、感情の起伏はできるだけなくなるようにしていた。そのほうが楽だし、周りも円満で問題が起こらないから。

 けれどその生き方はあまりよろしくなかったようだ。

 ────またそうやって逃げるのね。

 元妻が言った通りだ。自分は問題から逃げていただけだ。他人とぶつかることを恐れて本音を言おうとしなかった。それが円満につながると勝手に思い込んでいた。

 美夜のことも────。

「私は……辰美さんが本当は何を考えてるのか、知りたいんです」

「……ごめん」

 辰美は腕を伸ばし、美夜の体引き寄せた。唐突に触れ合った小さな体が腕の中で強張る。

「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ俺は……」

 躊躇っているとすっと、美夜の手のひらが背中を撫でた。それに安心したのか、次の言葉は自然と出てきた。

「君と俺は……歳が離れてる。俺はそれを分かって君と付き合った。けど、きっと世間的にはいい顔をされないだろう」

 それでもいいと思って付き合った。美夜の気持ちに後押しされたのもある。あの時はそれが幸せになる選択だと信じていた。今もそうだ。

「だから、俺なりに必死だったんだ。若かったら気にしなかったことかもしれない。君に触れるのにいちいち躊躇わないといけなかった。大人として振る舞わないと君はきっと幻滅する。思うままになんて出来ない。年甲斐もなくそんなことしたら……」

 ────この恋がきっと、いけないものになってしまうから。

 だからできるだけ紳士的に努めた。穏やかに振る舞っていれば咎められることはないだろう。歳のことは言われるかもしれないが、少なくとも「気持ち悪い」なんて心ない感想を言われることはない。

 結局いい顔をしたかっただけなのだ。本気で恋愛する勇気がなかった。

「俺だって男なんだ。君を目の前にして何も考えない訳じゃない。けど本気で君を抱いたら君だって嫌に思うだろう」

「どうしてですか?」

「どうしてって……」

「私はあなたが好きだから一緒にいるんです。本気じゃないのに抱かれるなんて、そのほうがずっと悲しい……」

 美夜は抱きしめた腕をキュッと強めた。

「……辰美さん。愛情って、普段は目には見えないんです。だから私たちがどんなに好き合ってても、周りはきっと自分の価値観でいろんなことを言うと思います。気持ち悪いって言う人もいると思うし、体目的だとか、お金目的だとか……自分の物差しで意見するんです」

 そうだな、と心の中で返事をする。

 まだ誰に言われたわけでもないが、その様子は何度も想像した。

「でも、辰美さんは私の気持ちに心を合わせてくれましたよね……? 私が一人でピアノを弾いてた時、『元気になれた』って、言ってくれた。同じ気持ちになって、私のこと理解してくれた。だから私、他の人に何か言われても構いません。そんなことより、あなたがそうやって私たちのことを正当化しようとして、無理をするほうが辛いんです」

「……君は、怒らないのか。俺は君を傷付けたのに」

 辰美が罰が悪そうに呟くと、

「怒ってます。すごく、ヤキモチも妬きました。だから、おあいこです」と頼りなさげに笑った。そして、「私も、いっぱい失礼なことしましたし」と小さな声で付け足した。

 妙な話だ。付き合っているのに今やっと本音を言えたなんて。

 やはり、気がつかない間に歳上だからと気を張っていたのだろうか。美夜に頼りにしてもらえるいい大人になりたかったのかもしれない。

 美夜はまたぎゅっと抱きしめた。押し付けられた顔から「好きです」と聞こえた。なんだかそれが甘えられているように思えて、頭の中に欲が浮かび始める。

 今までは無視していたものだが、この流れで無視するのは今の辰美には厳しかった。

 体を離し、少し驚いたような顔をした美夜に口付ける。柔らかい唇はそのまま逆らうことなく辰美の動きに従った。

 美夜に口付けたことはあるのに、その時とは違う感覚だった。夢中になっていると、吐息が漏れる音が聞こえる。背中に触れた指先が縋るように背広を掴む。今までしたことがないものだ。なのに、掻き立てられる。

 紳士から逸脱した行動なのに歯止めが効かなくなって、しまいには彼女の体をそのまま押し倒した。この感情の名前は、「背徳感」だ。

 感情のまま美夜に触れてはいけない。大人気ない行為は軽蔑されると散々言い聞かせてきたのに、いざこうして触れると美夜が許すように視線を合わせた。それが留め金を外してしまう。

 ────まずいな。本当に抱きそうだ。

 瞬間。ヴヴ、と。部屋に小さな音が響いた。多分、本気になっていたら気にも留めなかった音だ。恐らく自分のスマホだろう。音は何度か鳴ると、そのまま静かになった。

 興が削がれてしまった。せっかくこれからだと言うのに、間の悪いことだ。

 だがよく考えてみれば、自分は仕事を早退してきた。あの時は慌てていたら、慌てすぎて仕事のことにロクに気を回さないまま帰ってきてしまった。

 急ぎの仕事はなかったはずだが、流石にそれはよくない。

 美夜は仰向けになったまま不安げに見つめている。辰美はもう一度口付けると、「仕切り直しだ」と体を起こした。

 多分、あのまま何もなければそのまま美夜を抱いていただろう。別にそれでも構わなかったが、彼女は怪我をしたばかりで無理をさせるべきではない。

 なんて言うと、また美夜は怒るかもしれないが。

「怪我が治るまでお預けだ」

 案の定、美夜はとても不服そうだ。少し口を尖らせた。

「どれぐらいで治るんだ?」

「お医者さんは一週間ぐらいって……それまでは湿布貼ってたらいいそうです」

「じゃあ、治ったらどこか旅行でも行こう」

「旅行?」

「ああ。行きたいところ、考えておいてくれ」

 辰美は鞄の中に突っ込んでいたスマホを確認した。職場の人間から二件、メールが届いている。それと一件の電話。少々急ぎ気味の内容だ。これは一度会社に戻ったほうが良さそうだ。

「悪い。一旦会社に戻るよ。仕事が終わったらまた来てもいいか?」

「は、はい」

 辰美は鞄を持って立ち上がった。美夜を家まで送り届けたし、とりあえず生存確認できただけでもよかった。あとはもう一つの問題を片付けるだけだ。

 美夜は玄関まで見送ってくれた。辰美は振り返り、まだどこか不安げな顔をしている彼女に告げた。

「大人しく休んでおくんだぞ」

「わ、分かってます」

「じゃないと、旅行で続きが出来なくなる」

「えっ」

「行ってきます」

 扉の隙間から羞恥を浮かべた真っ赤な美夜を見ながら、辰美は部屋を後にした。
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