おじさんには恋なんて出来ない
辰美が会社に戻ると皆驚いた。早退すると言って大慌てで出て行ったからだろう。
「課長、大丈夫なんですか。ご家族が事故って────」
「ああ、もう大丈夫だ。迷惑を掛けて済まなかった」
自分のデスクに戻ると、前の席に座った有野が心配そうに見つめて来た。本当に大丈夫か、気になっているような顔だ。
事故に遭った家族が誰なのか、誰も突っ込んで聞かなかった。
辰美が離婚したばかりだと誰もが知っている。だからその問題に触れるかもしれない質問は投げにくいのだろう。
本当は親かもしれないし兄弟かもしれないのに。だが、辰美にはそのどちらもいない。離婚した今は天涯孤独だ。
────家族が事故に遭った、か。
追求されれば答えただろうか。恋人が事故に遭ったのだと。それが年の離れた女性だと。
自分と美夜はいつかそうなるだろうか。今は分からない。そこまでの未来はいま描けないが、大切にしたいと思う。彼女はこんな自分にも向き合ってくれた人だから。
連絡が来ていた急ぎの仕事はできるところまで終わらせた。
終業時間が少し過ぎた頃、部下の一人が声をかけて来た。
「課長、早く上がらなくていいんですか。いくら無事だったとはいえ、帰ったほうがいいですよ」
「ああ、すまないな。じゃあ、お言葉に甘えて先に上がらせてもらうよ」
美夜は恐らく家でじっとしているだろう。もしかしたらピアノの練習をしているかもしれないが、無理はしないはずだ。
「お疲れ様」
荷物を持ってオフィスを出る。エレベーターを待っていると、後ろから誰かが呼び止めた。
「課長」
呼び止めたのは有野だった。
「どうした?」
「あの……」
有野は言いづらそうに視線を上げたり下げたりしている。やがて、勢いよく顔を上げて尋ねた。
「事故に遭ったのって……課長の、元奥さん……なんですか」
「違うよ」
辰美はキッパリと言い切った。恐らく家族と聞いて、有野は元妻を思い浮かべたのだろう。当然の想像だ。
けれど多分、今元妻が事故に遭ったと聞いても今日のように会社を飛び出すことはないだろう。
元妻のことがどうでもよくなったのではない。悲しみへの執着が薄れたのだ。幸せについて美夜に諭されたあの時から、何かが吹っ切れた。
今大切なのは美夜だ。過去ではない。
それが美夜だと、今は言うことができない。だが、この恋をやましいものにしないためにも、はっきりと言うべきだと思った。それがどんなに自分を捉えているか。
「けど、その人は……俺の大切な人なんだ」
「……そうですか」
有野は静かに視線を下げた。やがてニコッと笑顔を浮かべて、納得したように何度も頷いた。
「ふふっ、課長にも新しい春が来たんですね。あ、でも今はもう夏か」
「有野くん?」
「ほら、エレベーター来ましたよ。早く帰らないと、課長の大事な人が逃げちゃうんじゃないですか」
満面の笑みを浮かべながら有野はエレベーターを指さす。辰美は戸惑いながら機体に乗り込んだ。
────今度こそ、お幸せに。
小さく、そう聞こえた。
「課長、大丈夫なんですか。ご家族が事故って────」
「ああ、もう大丈夫だ。迷惑を掛けて済まなかった」
自分のデスクに戻ると、前の席に座った有野が心配そうに見つめて来た。本当に大丈夫か、気になっているような顔だ。
事故に遭った家族が誰なのか、誰も突っ込んで聞かなかった。
辰美が離婚したばかりだと誰もが知っている。だからその問題に触れるかもしれない質問は投げにくいのだろう。
本当は親かもしれないし兄弟かもしれないのに。だが、辰美にはそのどちらもいない。離婚した今は天涯孤独だ。
────家族が事故に遭った、か。
追求されれば答えただろうか。恋人が事故に遭ったのだと。それが年の離れた女性だと。
自分と美夜はいつかそうなるだろうか。今は分からない。そこまでの未来はいま描けないが、大切にしたいと思う。彼女はこんな自分にも向き合ってくれた人だから。
連絡が来ていた急ぎの仕事はできるところまで終わらせた。
終業時間が少し過ぎた頃、部下の一人が声をかけて来た。
「課長、早く上がらなくていいんですか。いくら無事だったとはいえ、帰ったほうがいいですよ」
「ああ、すまないな。じゃあ、お言葉に甘えて先に上がらせてもらうよ」
美夜は恐らく家でじっとしているだろう。もしかしたらピアノの練習をしているかもしれないが、無理はしないはずだ。
「お疲れ様」
荷物を持ってオフィスを出る。エレベーターを待っていると、後ろから誰かが呼び止めた。
「課長」
呼び止めたのは有野だった。
「どうした?」
「あの……」
有野は言いづらそうに視線を上げたり下げたりしている。やがて、勢いよく顔を上げて尋ねた。
「事故に遭ったのって……課長の、元奥さん……なんですか」
「違うよ」
辰美はキッパリと言い切った。恐らく家族と聞いて、有野は元妻を思い浮かべたのだろう。当然の想像だ。
けれど多分、今元妻が事故に遭ったと聞いても今日のように会社を飛び出すことはないだろう。
元妻のことがどうでもよくなったのではない。悲しみへの執着が薄れたのだ。幸せについて美夜に諭されたあの時から、何かが吹っ切れた。
今大切なのは美夜だ。過去ではない。
それが美夜だと、今は言うことができない。だが、この恋をやましいものにしないためにも、はっきりと言うべきだと思った。それがどんなに自分を捉えているか。
「けど、その人は……俺の大切な人なんだ」
「……そうですか」
有野は静かに視線を下げた。やがてニコッと笑顔を浮かべて、納得したように何度も頷いた。
「ふふっ、課長にも新しい春が来たんですね。あ、でも今はもう夏か」
「有野くん?」
「ほら、エレベーター来ましたよ。早く帰らないと、課長の大事な人が逃げちゃうんじゃないですか」
満面の笑みを浮かべながら有野はエレベーターを指さす。辰美は戸惑いながら機体に乗り込んだ。
────今度こそ、お幸せに。
小さく、そう聞こえた。