おじさんには恋なんて出来ない
月日は過ぎ去り、気がつけばあっという間に秋が来ていた。美夜はバイトと音楽活動で相変わらず忙しい日々を送っていた。
日曜の昼前、バイトを終わらせた美夜は、辰美がよく飲むブラックコーヒーとサンドイッチを手土産に辰美の家に向かっていた。
最近忙しいせいで辰美と一緒にいられない。今日も夜からストリートの予定が入っている。だから、束の間の逢瀬だ。
見慣れてきた玄関のオートロックを鍵で開ける。辰美からもらった合鍵だ。部屋に急ぐと、インターホンを押した瞬間、待っていたのか玄関の扉が開いた。
「お疲れ様」
ぎゅっとしたい気持ちを堪え、半分ニヤけながら軽く頭を下げる。
「お邪魔します」
辰美はリビングで仕事をしていたらしい。玄関から覗くと、テーブルの上にパソコンが見えた。そのまま奥へと進む。
いつもと同じ辰美の家。だが、そこには美夜が見たことがないものがあった。
テレビと向かい合わせに置かれたソファ。その後ろに置いてあるものを見て、美夜は目を見開いた。そこにあったのはこの家にないはずのピアノだった。
「え……っ」
ナチュラルな色の家具とよく似合うホワイトカラーの電子ピアノは控えめにそこで主張していた。驚いて辰美を見ると、辰美は照れたように微笑んだ。
「最近、忙しいだろう。ここに来るとピアノの練習ができないから、あったらいいかなと思って」
あまりにも驚きすぎて言葉が出ない。まさか、これは自分のために買ったのだろうか。唐突すぎる。なんの相談もなかったから余計にだ。
「練習って……これ、私に……?」
「うん」
「こ……こんな高いもの受け取れません! 一体いくらしたんですか!」
見ただけでは分からないが、有名なピアノメーカーのものだ。電子ピアノは安くても数万円はする。
「これは半分は君にで、半分は俺になんだ」
「どういうことです?」
「誕生日プレゼントを考えてって言っただろう。だからピアノにしようと思ったんだ。今更欲しいものなんてないし、どうせなら君がピアノを弾いてるところが見たいと思って。だから、そんなに怒らないでくれ」
「……これじゃ、私の誕生日プレゼントみたいじゃないですか」
確かに、自分より収入が多く歳上の辰美は今更欲しいものなんてないだろう。財布や鞄なんかは自分で買ってしまうだろうし、気に入ったものがあるかもしれない。となると、美夜が贈れるものは限られている。
辰美には曲をプレゼントしようと思っていたが、まさかピアノを買って来られるとは。
美夜は呆れたように笑みを浮かべた。
「弾いてみてもいいですか?」
「どうぞ」
早速椅子に座る。鍵盤の蓋を開けると、まっさらな鍵盤が見えた。木製のやや重めの鍵盤だ。普段自分が使っているものはもっと軽い。押した感触はかなり違うが、昔家にあったアコースティックピアノのようにしっくりとなじむ。
電源を入れて音と出してみた。軽やかな音が鳴る。
「流石に、マンションにこれ以上大きなものは置けなくてね」、と辰美が言った。
「当然です。ここにグランドピアノなんか置いたら床が抜けちゃいますよ」
試しに少し弾いてみる。辰美のために作った曲だ。まだ途中だが、ある程度完成していた。
「知らない曲だな」
「辰美さんの誕生日プレゼントに作った曲なんです。まだ途中ですけど……」
曲名もまだ決めていない。本当はライブで披露しようと思っていたが、こんなものを用意されては何もしないわけにはいかなかった。
辰美は黙って聞いていた。やがて美夜の指が止まると、後ろからそっと抱きしめた。
「ありがとう」
首筋に口付けた唇から声が聞こえた。
「……ピアノなんて買ったら、私ますます音楽にばかりのめり込んでしまうかもしれませんよ」
「いいんだ。俺は君が楽しそうにピアノを弾く姿が好きだから」
美夜はふと思った。もし父が、辰美のように母が音楽をすることを許していたら、今もそばにいたのだろうか。寂しいと思うこともなく、足繁く母親のコンサートに通っていただろうか。
もしかしたら、自分が求めていたのはピアノを弾くことを許してくれる人ではなかったのかもしれない。
「……この曲の名前が決まりました」
「なんだい?」
「内緒です」
「ずるいな。そこまで言ったのに。気になるじゃないか」
「CDを作るときに教えます」
美夜は願いを込めて、もう一度その曲を弾いた。
どうか辰美がこのまま、いつまでも変わらずいてくれますように、と。
日曜の昼前、バイトを終わらせた美夜は、辰美がよく飲むブラックコーヒーとサンドイッチを手土産に辰美の家に向かっていた。
最近忙しいせいで辰美と一緒にいられない。今日も夜からストリートの予定が入っている。だから、束の間の逢瀬だ。
見慣れてきた玄関のオートロックを鍵で開ける。辰美からもらった合鍵だ。部屋に急ぐと、インターホンを押した瞬間、待っていたのか玄関の扉が開いた。
「お疲れ様」
ぎゅっとしたい気持ちを堪え、半分ニヤけながら軽く頭を下げる。
「お邪魔します」
辰美はリビングで仕事をしていたらしい。玄関から覗くと、テーブルの上にパソコンが見えた。そのまま奥へと進む。
いつもと同じ辰美の家。だが、そこには美夜が見たことがないものがあった。
テレビと向かい合わせに置かれたソファ。その後ろに置いてあるものを見て、美夜は目を見開いた。そこにあったのはこの家にないはずのピアノだった。
「え……っ」
ナチュラルな色の家具とよく似合うホワイトカラーの電子ピアノは控えめにそこで主張していた。驚いて辰美を見ると、辰美は照れたように微笑んだ。
「最近、忙しいだろう。ここに来るとピアノの練習ができないから、あったらいいかなと思って」
あまりにも驚きすぎて言葉が出ない。まさか、これは自分のために買ったのだろうか。唐突すぎる。なんの相談もなかったから余計にだ。
「練習って……これ、私に……?」
「うん」
「こ……こんな高いもの受け取れません! 一体いくらしたんですか!」
見ただけでは分からないが、有名なピアノメーカーのものだ。電子ピアノは安くても数万円はする。
「これは半分は君にで、半分は俺になんだ」
「どういうことです?」
「誕生日プレゼントを考えてって言っただろう。だからピアノにしようと思ったんだ。今更欲しいものなんてないし、どうせなら君がピアノを弾いてるところが見たいと思って。だから、そんなに怒らないでくれ」
「……これじゃ、私の誕生日プレゼントみたいじゃないですか」
確かに、自分より収入が多く歳上の辰美は今更欲しいものなんてないだろう。財布や鞄なんかは自分で買ってしまうだろうし、気に入ったものがあるかもしれない。となると、美夜が贈れるものは限られている。
辰美には曲をプレゼントしようと思っていたが、まさかピアノを買って来られるとは。
美夜は呆れたように笑みを浮かべた。
「弾いてみてもいいですか?」
「どうぞ」
早速椅子に座る。鍵盤の蓋を開けると、まっさらな鍵盤が見えた。木製のやや重めの鍵盤だ。普段自分が使っているものはもっと軽い。押した感触はかなり違うが、昔家にあったアコースティックピアノのようにしっくりとなじむ。
電源を入れて音と出してみた。軽やかな音が鳴る。
「流石に、マンションにこれ以上大きなものは置けなくてね」、と辰美が言った。
「当然です。ここにグランドピアノなんか置いたら床が抜けちゃいますよ」
試しに少し弾いてみる。辰美のために作った曲だ。まだ途中だが、ある程度完成していた。
「知らない曲だな」
「辰美さんの誕生日プレゼントに作った曲なんです。まだ途中ですけど……」
曲名もまだ決めていない。本当はライブで披露しようと思っていたが、こんなものを用意されては何もしないわけにはいかなかった。
辰美は黙って聞いていた。やがて美夜の指が止まると、後ろからそっと抱きしめた。
「ありがとう」
首筋に口付けた唇から声が聞こえた。
「……ピアノなんて買ったら、私ますます音楽にばかりのめり込んでしまうかもしれませんよ」
「いいんだ。俺は君が楽しそうにピアノを弾く姿が好きだから」
美夜はふと思った。もし父が、辰美のように母が音楽をすることを許していたら、今もそばにいたのだろうか。寂しいと思うこともなく、足繁く母親のコンサートに通っていただろうか。
もしかしたら、自分が求めていたのはピアノを弾くことを許してくれる人ではなかったのかもしれない。
「……この曲の名前が決まりました」
「なんだい?」
「内緒です」
「ずるいな。そこまで言ったのに。気になるじゃないか」
「CDを作るときに教えます」
美夜は願いを込めて、もう一度その曲を弾いた。
どうか辰美がこのまま、いつまでも変わらずいてくれますように、と。