おじさんには恋なんて出来ない
JR大森駅は雪美の実家のすぐ近くの駅だった。離婚の話になってから一度も行っていない場所だ。
指定されたコーヒーショップに入り、雪美の姿を探す。雪美はパーテーションに囲まれた入り口からは見えにくい位置に座っていた。
「……遅れてすまない」
待ち合わせより二十分は早く来たが、一応謝罪した。
雪美は特に気にする様子もなく、メニューを広げた。
「何か飲む?」
「……そうだな。ブレンドコーヒーをもらうよ」
雪美は既にドリンクを頼んでいた。何も頼まないのも変だと思い、やってきた店員に注文を告げる。コーヒーが来るまでの間、気まずい雰囲気になると思った。
だが、
「元気そうね」
雪美な意外にも笑った。怒り、喚き散らす顔しかこびりついていない自分にとっては、ほっとする表情だった。
「……そうかな。それで、話ってなんだい」
だとしても、長い間一緒にいたいわけではない。早く話を終わらせたかった。
「私達、もう一度やり直さない?」
それはまたしても予想外な問いかけだった。辰美は思わず「は?」と言ってしまいそうになった。いや、既にそんな顔をしているかもしれない。
雪美は一体何を考えているのだろう。一年前の出来事を忘れたのだろうか。
二の句が告げないでいる辰美に、雪美は再び笑った。
「そうよね。突然で驚いているわよね。私とあなた、一年前に離婚したんだし……」
突然とか、もはやそんな問題ではない。浮気した妻とやり直す。世の中にはそういうことを考えられる優しい男もいるのかもしれない。
だが、自分は無理だ。今でも、あの時の光景をはっきりと覚えている。ベッドから顔を出した雪美と、間男の驚いた表情。当事者でなければ滑稽な光景だが、自分にとってはトラウマだった。
「何を……言ってるんだ」
「あのあと色々考えたの……。私も寂しかったんだって。辰美には仕事あるけど、私には何もない。ずっとあなたを待ってるしかできない。そういう寂しさから、別の男の人に頼っちゃったのよ。でもね、よく考えてみたの。辰美はちゃんとした夫だったなって。結婚してからは飲み会もあまり行かなかったし、記念日も忘れずにいてくれた。ドライブにも連れて行ってくれた。同年代の友達の話聞いてよくわかったわ。私幸せだったんだって」
雪美は思い出すように、宙を見ながら笑顔を浮かべた。その間辰美の頼んだコーヒーが来たが、辰美は口を付けられないでいた。
「私はまだあなたが好き……。だから、もう一度やり直したいの」
ようやくそこで言葉は止まった。回想、そしてロマンチックな告白。復縁のお願い。たったそれだけなのに、どっと疲れた。
雪美は復縁するために会いに来たのだ。一年かけて、それだけのことを────それだけしか考えられなかったのだ。
辰美は自分の中で何かが引いていくのを感じた。
離婚するために、数ヶ月の月日を要した。双方弁護士を立てたが、雪美は離婚に納得せず、成立にはかなりの時間がかかった。
それでも弁護士に言わせれば、まだ早い方だったのだという。辰美が慰謝料も何も要求せず、ただ離婚だけを望んだからこそだと言っていた。
本当は慰謝料を請求することもできた。浮気の証拠はあったし、雪美自身認めていた。
だが、雪美は専業主婦で働いていなかった。おそらく慰謝料を請求すれば彼女の親が支払っただろうが、そうすれば余計に泥沼化することが見えていた。
だからこそ何も言わず、離婚だけを求めたのだ。元妻にかけた最後の情けだた。
雪美側の弁護士も、その方がいいと踏んだのだろう。慰謝料を請求されない方が雪美のためになると踏み、彼女を説得した。そして離婚は成立した。
最後まで、雪美は不服そうな顔をしていた。ごめんなさいだとか、申し訳ないとか、そう言った言葉は一度も言わなかった。
────私だけが悪いと思ってるの!? そもそも浮気の原因を作ったのはあなたでしょうっ。
それが雪美側の意見だ。
それが間違いだとは思っていないし、妻の期待に答えられなかったことは夫として失格だったと思っている。
しかし、だからと言って他の男を家に呼んでセックスしていいことにはならない。あの時点で、話し合いしようという気持ちが失われたのだ。
雪美は知っているだろうか。自分が今までベッドに近付けなかったことを。眠れなかったことを。
だがそう言えばきっと彼女は「私だって辛かったのよ」と言うだろう。
自分達にはもう話し合いをすることは出来ない。お互いを理解し合うことも、相手を尊重することも。
「……すまない。それは無理だ」
辰美が断ると、雪美の眉が歪んだ。
「俺達はもう離婚した。それぞれ新しい生活の中で幸せを掴むべきだ。君も、あの男が好きだったんだろう」
「違うわ。あの人は本気じゃない」
「君はまだやり直せる。俺のことは忘れて幸せになってくれ」
「……そうやって自分を正当化するつもり?」
また、雪美の視線が厳しくなった。
「そうじゃない」
「そうじゃない。あなたは私なんかさっさと捨てて若い女のところに行きたいんでしょう。知ってるのよ。随分年下の女と付き合ってるって」
指定されたコーヒーショップに入り、雪美の姿を探す。雪美はパーテーションに囲まれた入り口からは見えにくい位置に座っていた。
「……遅れてすまない」
待ち合わせより二十分は早く来たが、一応謝罪した。
雪美は特に気にする様子もなく、メニューを広げた。
「何か飲む?」
「……そうだな。ブレンドコーヒーをもらうよ」
雪美は既にドリンクを頼んでいた。何も頼まないのも変だと思い、やってきた店員に注文を告げる。コーヒーが来るまでの間、気まずい雰囲気になると思った。
だが、
「元気そうね」
雪美な意外にも笑った。怒り、喚き散らす顔しかこびりついていない自分にとっては、ほっとする表情だった。
「……そうかな。それで、話ってなんだい」
だとしても、長い間一緒にいたいわけではない。早く話を終わらせたかった。
「私達、もう一度やり直さない?」
それはまたしても予想外な問いかけだった。辰美は思わず「は?」と言ってしまいそうになった。いや、既にそんな顔をしているかもしれない。
雪美は一体何を考えているのだろう。一年前の出来事を忘れたのだろうか。
二の句が告げないでいる辰美に、雪美は再び笑った。
「そうよね。突然で驚いているわよね。私とあなた、一年前に離婚したんだし……」
突然とか、もはやそんな問題ではない。浮気した妻とやり直す。世の中にはそういうことを考えられる優しい男もいるのかもしれない。
だが、自分は無理だ。今でも、あの時の光景をはっきりと覚えている。ベッドから顔を出した雪美と、間男の驚いた表情。当事者でなければ滑稽な光景だが、自分にとってはトラウマだった。
「何を……言ってるんだ」
「あのあと色々考えたの……。私も寂しかったんだって。辰美には仕事あるけど、私には何もない。ずっとあなたを待ってるしかできない。そういう寂しさから、別の男の人に頼っちゃったのよ。でもね、よく考えてみたの。辰美はちゃんとした夫だったなって。結婚してからは飲み会もあまり行かなかったし、記念日も忘れずにいてくれた。ドライブにも連れて行ってくれた。同年代の友達の話聞いてよくわかったわ。私幸せだったんだって」
雪美は思い出すように、宙を見ながら笑顔を浮かべた。その間辰美の頼んだコーヒーが来たが、辰美は口を付けられないでいた。
「私はまだあなたが好き……。だから、もう一度やり直したいの」
ようやくそこで言葉は止まった。回想、そしてロマンチックな告白。復縁のお願い。たったそれだけなのに、どっと疲れた。
雪美は復縁するために会いに来たのだ。一年かけて、それだけのことを────それだけしか考えられなかったのだ。
辰美は自分の中で何かが引いていくのを感じた。
離婚するために、数ヶ月の月日を要した。双方弁護士を立てたが、雪美は離婚に納得せず、成立にはかなりの時間がかかった。
それでも弁護士に言わせれば、まだ早い方だったのだという。辰美が慰謝料も何も要求せず、ただ離婚だけを望んだからこそだと言っていた。
本当は慰謝料を請求することもできた。浮気の証拠はあったし、雪美自身認めていた。
だが、雪美は専業主婦で働いていなかった。おそらく慰謝料を請求すれば彼女の親が支払っただろうが、そうすれば余計に泥沼化することが見えていた。
だからこそ何も言わず、離婚だけを求めたのだ。元妻にかけた最後の情けだた。
雪美側の弁護士も、その方がいいと踏んだのだろう。慰謝料を請求されない方が雪美のためになると踏み、彼女を説得した。そして離婚は成立した。
最後まで、雪美は不服そうな顔をしていた。ごめんなさいだとか、申し訳ないとか、そう言った言葉は一度も言わなかった。
────私だけが悪いと思ってるの!? そもそも浮気の原因を作ったのはあなたでしょうっ。
それが雪美側の意見だ。
それが間違いだとは思っていないし、妻の期待に答えられなかったことは夫として失格だったと思っている。
しかし、だからと言って他の男を家に呼んでセックスしていいことにはならない。あの時点で、話し合いしようという気持ちが失われたのだ。
雪美は知っているだろうか。自分が今までベッドに近付けなかったことを。眠れなかったことを。
だがそう言えばきっと彼女は「私だって辛かったのよ」と言うだろう。
自分達にはもう話し合いをすることは出来ない。お互いを理解し合うことも、相手を尊重することも。
「……すまない。それは無理だ」
辰美が断ると、雪美の眉が歪んだ。
「俺達はもう離婚した。それぞれ新しい生活の中で幸せを掴むべきだ。君も、あの男が好きだったんだろう」
「違うわ。あの人は本気じゃない」
「君はまだやり直せる。俺のことは忘れて幸せになってくれ」
「……そうやって自分を正当化するつもり?」
また、雪美の視線が厳しくなった。
「そうじゃない」
「そうじゃない。あなたは私なんかさっさと捨てて若い女のところに行きたいんでしょう。知ってるのよ。随分年下の女と付き合ってるって」