おじさんには恋なんて出来ない
それはあまりにも突然だった。聞き間違いではないかと思うほどに。
どうして、と。声が漏れた。辰美がどうしてそんなことを言ったのか、分かっているくせに。
「雪美には、君に二度と手を出さないように約束させる。二度と君に近寄らせない」
それは元妻のことなのに、なぜだが辰美自身のことを言っているように聞こえた。
辰美はきっと弱気になっているのだ。あんなことが起こって申し訳ないと思っている。だから別れたほうがお互いのためになるのだと。
別れるなんて、考えたこともない。この間のことは確かに辛かったが、だからと言って辰美と離れたいなんて一度も思わなかった。
「わ……わたしは、本当に大丈夫です。怪我もしてませんし、落ち込んでもいません。あれぐらいの修羅場、よく見てますから」
なんでもないのだと元気を装った。だが、辰美の表情は依然として変わらない。悲しみを通り越して無だ。
もう無理なのだと、その視線が、態度が証明していた。
「辰美さん。私の目を見て……」
薄暗いままの瞳を覗き込む。
いつかの夜、自分に口付けてくれた薄い唇が、「すまない」と美夜を突き放した。
美夜は呆然と目を開いた。
そんなの嘘だ。辰美は嘘をついている。あんなに大事にしてくれたのに、こんな突然別れるなんてない。
期待を込めてもう一度尋ねた。どうかお願い、と。
「でも、私のこと好きでしょう……?」
一瞬。辰美の目が悲しそうに歪んだ。
「────美夜。これからきっと、君はまた恋をするだろう。いろんな人間と出会って、いろんな経験をする。そして、俺とのことを忘れていくと思う。俺は、君が笑っていればいい。君が好きなピアノを続けていれば、それでいいんだ」
遠くを見通した優しい言葉。それは確かに優しかったが、絶望的に突き放す言葉だった。
「あなたと一緒」を望む自分には、あまりにも残酷な言葉だった。
「……君との出会いは後悔していない。けど、きっと忘れていく愛情だ。時間が経てば、忘れていくものだ。君は別の幸せな恋愛を見つける。君は幸せになれる人間だ。俺は、君を困らせたりしたくない。君の足を引っ張りたくない。君の作った曲をいつまでも聴いていたい……」
じゃあ、どうしてそばにいてくれないの……?
涙まじりの声が必死に辰美を引き留めようとする。縋り付くように辰美を見つめて、これ見よがしに罪悪感を煽ろうと涙を流す。
だけど、辰美は一度も揺らがなかった。最後に抱きしめることも、キスすら、しなかった。
「いや……」
「美夜……君に望むことが一つだけある」
────幸せになってくれ。
それは、自分ではない誰かに託した言葉。美夜自身か、あるいはもっと別の、見知らぬ人。
「君は才能がある。きっと成功する」
「いやです……」
どうして────。辰美さん。なぜあなたは自分が幸せになることを考えないの……? 私はあなたを幸せにしたいのに。
辛いなら一緒にいて、楽しいことは生きていればいつかは見つかる。出口なんかなくたって、あなたがいたら幸せだったのに。
どうして、一緒に戦うことを選んでくれないの。
やがて辰美は背を向けた。止めようとする美夜に一度も触れずに、暗い駅に向かって歩き始めた。
いけないで。いかないで。でも声にならない。なにを言っても彼は振り返らない気がした。
安っぽい引き留め方しか出来ない。
「辰美さん……っ」
呼ぶ声に、足が止まった。
けれど辰美は振り返らないだろう。彼は誰より優しいから。彼は自分のためにではなく、大切な人のために去ろうとしているから。
だから、その優しさに応えて、せめてこの悲しい別れを綺麗な言葉で締めくくりたかった。
「いつか、また……私のピアノを、聞いてくれますか……?」
────あの時みたいに。
辰美は足を止めたまま、静かに呟いた。
「もう一度、君に会えたその時は……」
やがて足音は遠ざかった。暗い遊歩道に立ったまま、美夜は必死に涙を堪えた。
堪えきれない涙が何度も流れて、噛み締めた唇は無様に歪む。
終わったのだ。自分と辰美の「幸せな恋」は。
どうして、と。声が漏れた。辰美がどうしてそんなことを言ったのか、分かっているくせに。
「雪美には、君に二度と手を出さないように約束させる。二度と君に近寄らせない」
それは元妻のことなのに、なぜだが辰美自身のことを言っているように聞こえた。
辰美はきっと弱気になっているのだ。あんなことが起こって申し訳ないと思っている。だから別れたほうがお互いのためになるのだと。
別れるなんて、考えたこともない。この間のことは確かに辛かったが、だからと言って辰美と離れたいなんて一度も思わなかった。
「わ……わたしは、本当に大丈夫です。怪我もしてませんし、落ち込んでもいません。あれぐらいの修羅場、よく見てますから」
なんでもないのだと元気を装った。だが、辰美の表情は依然として変わらない。悲しみを通り越して無だ。
もう無理なのだと、その視線が、態度が証明していた。
「辰美さん。私の目を見て……」
薄暗いままの瞳を覗き込む。
いつかの夜、自分に口付けてくれた薄い唇が、「すまない」と美夜を突き放した。
美夜は呆然と目を開いた。
そんなの嘘だ。辰美は嘘をついている。あんなに大事にしてくれたのに、こんな突然別れるなんてない。
期待を込めてもう一度尋ねた。どうかお願い、と。
「でも、私のこと好きでしょう……?」
一瞬。辰美の目が悲しそうに歪んだ。
「────美夜。これからきっと、君はまた恋をするだろう。いろんな人間と出会って、いろんな経験をする。そして、俺とのことを忘れていくと思う。俺は、君が笑っていればいい。君が好きなピアノを続けていれば、それでいいんだ」
遠くを見通した優しい言葉。それは確かに優しかったが、絶望的に突き放す言葉だった。
「あなたと一緒」を望む自分には、あまりにも残酷な言葉だった。
「……君との出会いは後悔していない。けど、きっと忘れていく愛情だ。時間が経てば、忘れていくものだ。君は別の幸せな恋愛を見つける。君は幸せになれる人間だ。俺は、君を困らせたりしたくない。君の足を引っ張りたくない。君の作った曲をいつまでも聴いていたい……」
じゃあ、どうしてそばにいてくれないの……?
涙まじりの声が必死に辰美を引き留めようとする。縋り付くように辰美を見つめて、これ見よがしに罪悪感を煽ろうと涙を流す。
だけど、辰美は一度も揺らがなかった。最後に抱きしめることも、キスすら、しなかった。
「いや……」
「美夜……君に望むことが一つだけある」
────幸せになってくれ。
それは、自分ではない誰かに託した言葉。美夜自身か、あるいはもっと別の、見知らぬ人。
「君は才能がある。きっと成功する」
「いやです……」
どうして────。辰美さん。なぜあなたは自分が幸せになることを考えないの……? 私はあなたを幸せにしたいのに。
辛いなら一緒にいて、楽しいことは生きていればいつかは見つかる。出口なんかなくたって、あなたがいたら幸せだったのに。
どうして、一緒に戦うことを選んでくれないの。
やがて辰美は背を向けた。止めようとする美夜に一度も触れずに、暗い駅に向かって歩き始めた。
いけないで。いかないで。でも声にならない。なにを言っても彼は振り返らない気がした。
安っぽい引き留め方しか出来ない。
「辰美さん……っ」
呼ぶ声に、足が止まった。
けれど辰美は振り返らないだろう。彼は誰より優しいから。彼は自分のためにではなく、大切な人のために去ろうとしているから。
だから、その優しさに応えて、せめてこの悲しい別れを綺麗な言葉で締めくくりたかった。
「いつか、また……私のピアノを、聞いてくれますか……?」
────あの時みたいに。
辰美は足を止めたまま、静かに呟いた。
「もう一度、君に会えたその時は……」
やがて足音は遠ざかった。暗い遊歩道に立ったまま、美夜は必死に涙を堪えた。
堪えきれない涙が何度も流れて、噛み締めた唇は無様に歪む。
終わったのだ。自分と辰美の「幸せな恋」は。