【11/25書籍発売予定】契約外溺愛 ~呪われ猫伯爵に溺愛宣言されたが、勘違いする乙女心は既にない。……いえ、取り戻さなくて結構です!~
10 信じるよ
……何故ここに、グレンがいるのだろう。
グレンは困惑するステラのそばにやって来ると、男性が掴んでいた手を引き剥がす。
ようやく自由になったステラが知らず息を吐くと、労わるように肩に手が乗せられた。
「女性に対して、何をしている」
「な、何って。その女がせまってきたんだ」
男性の言葉にステラの肩が震える。
事実無根ではあるが、ステラにはその類の噂が存在する。
この状況では、グレンがそれを信じてもおかしくない。
どうせステラの言うことは信用されないだろうが、甘んじて受け入れるわけにはいかなかった。
「そんなこと、するわけありません」
ステラの身の潔白を知り、信じ、守るのは自分だけだ。
強く睨みつけると、男性がたじろいで一歩後退る。
「……泥棒が入ったと聞いた。この建物の管理にも問題があるだろう。それに、ステラがおまえにせまる理由がない」
「修理代を払えと言ったんだ。そうしたら、体で」
「そんなこと、言っていません!」
ステラが自制しなければ今頃ツルツルのピカピカで毛根は全滅だったというのに、ふざけないでほしい。
今度は男性も怯むことなく、ステラを見て笑みを浮かべている。
どうせグレンは信じない。
そう言って笑われているようで、何だか悔しかった。
嘲笑う男性を見ると、グレンは肩に乗せていた手に力を入れ、ステラを抱き寄せた。
「ステラは俺の婚約者だ。修理代など問題にならない」
「……あんたは、誰だ」
「グレン・ウォルフォード」
「ウォルフォード……伯爵⁉」
貴族だと知った瞬間に、男性が明らかに動揺し始める。
ごく普通の貸し部屋に、平民の女と一緒にいるのだから、困惑するのも無理はない。
だが、身なりと立ち居振る舞いから嘘ではないと判断したらしい男性は、ちらりとステラに視線を移した。
「なるほど。貴族の愛人というのは、本当のようだな。何でもいいから、修理代を払って出て行ってくれ。今日中だ!」
「間違うな、婚約者だ。それに、被害に遭ったのはステラなのに、修理代を出すのか?」
呆れたと言わんばかりにグレンが問うと、男性は小さく舌打ちする。
「だって、この女が貴族の恨みを買うから、あいつらが……」
不満そうな呟きに、グレンの紅玉の瞳が細められる。
「ほお? 泥棒だったのでは?」
「あ!」
男性は顔色を変えて手を口で覆うが、もう遅い。
恐る恐るといった表情で様子を窺う男に、グレンはにこりと微笑んだ。
「修理代は、俺が支払う。だが、この部屋の管理とあいつらとやらについては、しっかりと調べさせてもらおう」
「そ、それは」
「片付けがある。――出ていけ」
その静かな一言に逆らうことができない男性は、そのまま扉の外へと姿を消す。
抱き寄せられた手を緩められて自由になったステラは、少し距離を取ってグレンに向き合った。
「ありがとうございました。……でも、何故ここに?」
「院長から連絡が来た。治癒院でも脅されたとは聞いたが、まさかここまでするとは。見る限り、盗むというよりも荒らすのが目的のようだな」
そう言って、グレンは床に落ちたノートの切れ端に手をかける。
それは細かく破られた上に既に水を吸ってふやけており、グレンが拾い上げる前にぐちゃりと千切れ落ちた。
ステラもしゃがんでノートを拾うが、どれもボロボロに破られた上にびしょ濡れだ。
文字も滲んでいて、どう足掻いても復元するのは無理だろう。
「これは全部、ステラが書いたのか?」
「公爵に付き添っていただいて図書館に通って、六年かけて書きました。ノートを取られるようになってからは、何冊も偽物を用意して、効率が悪くて。それでもようやく、ここまで書いたのですが……全滅ですね」
ステラは乾いた笑みを浮かべると、床に散らばったノートだったものを集める。
苦労して書いた大切なものも、こうなればただのゴミだ。
「……大丈夫か」
「おおよそは、頭に入っています。平気です」
湿ったゴミをまとめると、同じく濡れているシーツでくるんで結ぶ。
悔しくて涙が滲んでくるが、グレンに悟られないように背を向け、涙を拭った。
振り返ると、床にきらりと光るものが目に入る。
グレンに貰った星のブローチが、見るも無残にバラバラになっていた。
金目のものならば盗まれたのかもしれないが、これは露店で売っていたものだ。
恐らく売ってもたいした値がつかないから放置されたか、あるいは嫌がらせの一環として破壊することにしたのだろう。
「グレン様、すみません」
「……それは、もう捨てた方がいい」
ステラはうなずくと、ブローチだった欠片を拾い、ゴミと一緒にまとめた。
「片付けはこんなものだろう。荷物はあるのか?」
「ノート以外では、着替えくらいですが……」
当然のように、服もすべて切り刻まれていて、到底使えそうにない。
もともと数着しか持っていないのに、何てことをしてくれたのか。
明日は部屋探しと同時に、着替えも買わなければ。
忙しいし出費もつらいが、どうしようもない。
結局、荷物と呼べるものは何もなく、部屋にはゴミだけが残った。
「……本当に、何もないな」
「大切なものとお金は、院長に預けてあります。こういうことは今までにもあって……部屋に置いておけません。ですので、院長に会ってから支払いをしますね」
「支払い?」
「修理代です」
一体いくらになるのかわからないが、今まで貯めていたお金があるので、さすがに払えるはずだ。
男性もグレン相手にぼったくり価格を請求しないだろうから、かえってありがたい。
「そもそもこの建物の管理の問題があるし、恐らく手引きしたのはあの男だ。逆に慰謝料を取れると思うぞ」
「駄目です。お金を払わずに揉めれば、もうどこも部屋を貸してくれなくなります。ここも、苦労して見つけたのですから」
「例の毒婦とか愛人とかいう噂のせいか? 酷いものだな」
呆れたように肩をすくめるグレンは、正面からステラに暴言を吐くことはない。
それだけでも、今は救われる思いだ。
「……契約を、解消しましょう。今なら、グレン様も騙されたと言えば問題ないと思います」
まだ結婚していないし、美貌の伯爵ならば問題なくお相手を見つけられるだろう。
かえってステラと一年結婚した後よりも身綺麗でいられて、いいはずだ。
呪いの中和だって、魔法使いや魔女は他にもいるのだから、ステラである必要はない。
閲覧権は惜しいが、この調子で悪評を振りまいて迷惑をかける妻など、一年間だけでも願い下げだろう。
決断は早い方がいい。
ステラが笑みを浮かべると、グレンは不思議そうに首を傾げた。
「治療にかこつけて愛人をしているというのは、本当なのか?」
「――違います。私は治療をしているだけです。お客様にまで、あらぬ疑いをかけないでください!」
ステラ自身は、即日未亡人の件と『ツンドラの女神』の力のせいで色々言われても仕方がない。
だが、顧客は皆乏しい頭髪に悩んで、ステラに助けを乞うてきた人達だ。
公爵の紹介なのでステラに邪な目を向けることもないし、真摯に自身の頭皮や毛髪と向き合う善良な薄毛人である。
それを愛人を囲うような人間だなんて言われるのは、腹立たしかった。
「助けていただき、ありがとうございました。修理代は後日、院長か公爵経由でお渡しします」
「何故だ?」
何故も何も、事態と話の流れからわかりそうなものだが。
ステラは小さく息を吐いた。
「契約解消ですよね。今後お会いすることもありませんので」
「いや、契約は解消しない。君は婚約者だ。だから俺が支払う」
「……は?」
何を言われたのかわからず、ぽかんと口を開けていると、グレンの口元が微かに綻ぶ。
「身にやましいことはないんだろう?」
「もちろんです」
即答すると、今度はゆっくりと紅玉の瞳を細めた。
「信じるよ。――荷物がないなら、行くぞ」
グレンは困惑するステラのそばにやって来ると、男性が掴んでいた手を引き剥がす。
ようやく自由になったステラが知らず息を吐くと、労わるように肩に手が乗せられた。
「女性に対して、何をしている」
「な、何って。その女がせまってきたんだ」
男性の言葉にステラの肩が震える。
事実無根ではあるが、ステラにはその類の噂が存在する。
この状況では、グレンがそれを信じてもおかしくない。
どうせステラの言うことは信用されないだろうが、甘んじて受け入れるわけにはいかなかった。
「そんなこと、するわけありません」
ステラの身の潔白を知り、信じ、守るのは自分だけだ。
強く睨みつけると、男性がたじろいで一歩後退る。
「……泥棒が入ったと聞いた。この建物の管理にも問題があるだろう。それに、ステラがおまえにせまる理由がない」
「修理代を払えと言ったんだ。そうしたら、体で」
「そんなこと、言っていません!」
ステラが自制しなければ今頃ツルツルのピカピカで毛根は全滅だったというのに、ふざけないでほしい。
今度は男性も怯むことなく、ステラを見て笑みを浮かべている。
どうせグレンは信じない。
そう言って笑われているようで、何だか悔しかった。
嘲笑う男性を見ると、グレンは肩に乗せていた手に力を入れ、ステラを抱き寄せた。
「ステラは俺の婚約者だ。修理代など問題にならない」
「……あんたは、誰だ」
「グレン・ウォルフォード」
「ウォルフォード……伯爵⁉」
貴族だと知った瞬間に、男性が明らかに動揺し始める。
ごく普通の貸し部屋に、平民の女と一緒にいるのだから、困惑するのも無理はない。
だが、身なりと立ち居振る舞いから嘘ではないと判断したらしい男性は、ちらりとステラに視線を移した。
「なるほど。貴族の愛人というのは、本当のようだな。何でもいいから、修理代を払って出て行ってくれ。今日中だ!」
「間違うな、婚約者だ。それに、被害に遭ったのはステラなのに、修理代を出すのか?」
呆れたと言わんばかりにグレンが問うと、男性は小さく舌打ちする。
「だって、この女が貴族の恨みを買うから、あいつらが……」
不満そうな呟きに、グレンの紅玉の瞳が細められる。
「ほお? 泥棒だったのでは?」
「あ!」
男性は顔色を変えて手を口で覆うが、もう遅い。
恐る恐るといった表情で様子を窺う男に、グレンはにこりと微笑んだ。
「修理代は、俺が支払う。だが、この部屋の管理とあいつらとやらについては、しっかりと調べさせてもらおう」
「そ、それは」
「片付けがある。――出ていけ」
その静かな一言に逆らうことができない男性は、そのまま扉の外へと姿を消す。
抱き寄せられた手を緩められて自由になったステラは、少し距離を取ってグレンに向き合った。
「ありがとうございました。……でも、何故ここに?」
「院長から連絡が来た。治癒院でも脅されたとは聞いたが、まさかここまでするとは。見る限り、盗むというよりも荒らすのが目的のようだな」
そう言って、グレンは床に落ちたノートの切れ端に手をかける。
それは細かく破られた上に既に水を吸ってふやけており、グレンが拾い上げる前にぐちゃりと千切れ落ちた。
ステラもしゃがんでノートを拾うが、どれもボロボロに破られた上にびしょ濡れだ。
文字も滲んでいて、どう足掻いても復元するのは無理だろう。
「これは全部、ステラが書いたのか?」
「公爵に付き添っていただいて図書館に通って、六年かけて書きました。ノートを取られるようになってからは、何冊も偽物を用意して、効率が悪くて。それでもようやく、ここまで書いたのですが……全滅ですね」
ステラは乾いた笑みを浮かべると、床に散らばったノートだったものを集める。
苦労して書いた大切なものも、こうなればただのゴミだ。
「……大丈夫か」
「おおよそは、頭に入っています。平気です」
湿ったゴミをまとめると、同じく濡れているシーツでくるんで結ぶ。
悔しくて涙が滲んでくるが、グレンに悟られないように背を向け、涙を拭った。
振り返ると、床にきらりと光るものが目に入る。
グレンに貰った星のブローチが、見るも無残にバラバラになっていた。
金目のものならば盗まれたのかもしれないが、これは露店で売っていたものだ。
恐らく売ってもたいした値がつかないから放置されたか、あるいは嫌がらせの一環として破壊することにしたのだろう。
「グレン様、すみません」
「……それは、もう捨てた方がいい」
ステラはうなずくと、ブローチだった欠片を拾い、ゴミと一緒にまとめた。
「片付けはこんなものだろう。荷物はあるのか?」
「ノート以外では、着替えくらいですが……」
当然のように、服もすべて切り刻まれていて、到底使えそうにない。
もともと数着しか持っていないのに、何てことをしてくれたのか。
明日は部屋探しと同時に、着替えも買わなければ。
忙しいし出費もつらいが、どうしようもない。
結局、荷物と呼べるものは何もなく、部屋にはゴミだけが残った。
「……本当に、何もないな」
「大切なものとお金は、院長に預けてあります。こういうことは今までにもあって……部屋に置いておけません。ですので、院長に会ってから支払いをしますね」
「支払い?」
「修理代です」
一体いくらになるのかわからないが、今まで貯めていたお金があるので、さすがに払えるはずだ。
男性もグレン相手にぼったくり価格を請求しないだろうから、かえってありがたい。
「そもそもこの建物の管理の問題があるし、恐らく手引きしたのはあの男だ。逆に慰謝料を取れると思うぞ」
「駄目です。お金を払わずに揉めれば、もうどこも部屋を貸してくれなくなります。ここも、苦労して見つけたのですから」
「例の毒婦とか愛人とかいう噂のせいか? 酷いものだな」
呆れたように肩をすくめるグレンは、正面からステラに暴言を吐くことはない。
それだけでも、今は救われる思いだ。
「……契約を、解消しましょう。今なら、グレン様も騙されたと言えば問題ないと思います」
まだ結婚していないし、美貌の伯爵ならば問題なくお相手を見つけられるだろう。
かえってステラと一年結婚した後よりも身綺麗でいられて、いいはずだ。
呪いの中和だって、魔法使いや魔女は他にもいるのだから、ステラである必要はない。
閲覧権は惜しいが、この調子で悪評を振りまいて迷惑をかける妻など、一年間だけでも願い下げだろう。
決断は早い方がいい。
ステラが笑みを浮かべると、グレンは不思議そうに首を傾げた。
「治療にかこつけて愛人をしているというのは、本当なのか?」
「――違います。私は治療をしているだけです。お客様にまで、あらぬ疑いをかけないでください!」
ステラ自身は、即日未亡人の件と『ツンドラの女神』の力のせいで色々言われても仕方がない。
だが、顧客は皆乏しい頭髪に悩んで、ステラに助けを乞うてきた人達だ。
公爵の紹介なのでステラに邪な目を向けることもないし、真摯に自身の頭皮や毛髪と向き合う善良な薄毛人である。
それを愛人を囲うような人間だなんて言われるのは、腹立たしかった。
「助けていただき、ありがとうございました。修理代は後日、院長か公爵経由でお渡しします」
「何故だ?」
何故も何も、事態と話の流れからわかりそうなものだが。
ステラは小さく息を吐いた。
「契約解消ですよね。今後お会いすることもありませんので」
「いや、契約は解消しない。君は婚約者だ。だから俺が支払う」
「……は?」
何を言われたのかわからず、ぽかんと口を開けていると、グレンの口元が微かに綻ぶ。
「身にやましいことはないんだろう?」
「もちろんです」
即答すると、今度はゆっくりと紅玉の瞳を細めた。
「信じるよ。――荷物がないなら、行くぞ」